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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1798

森田士長と照子が両親の実家に帰省しながらの新婚旅行を満喫している頃、名寄の官舎では駐屯地の延灯時間になって松山千秋3佐と妻の裕美2曹が酒を飲みながら話し合っていた。松山一家はこの正月休暇には三重県に帰省する予定だった。
「この休暇でウチの両親に自衛隊を退職することを言うんでしょう」「うん、部隊の方に申し出た以上、言わない訳にはいかないな」娘の小春が眠ったのを確認してテーブルに戻ってきた裕美2曹が唐突に直突きの質問をしてきたので千秋3佐は上段受けで答えた。
千秋3佐は年末の部隊長会同を兼ねた1月1日付昇任者を決定する会議で「自分の中隊は優秀な森田曹侯補士を退職させられたのだから陸士の昇任枠を与えられる権利がある」と主張した。すると1科長が学科試験の得点と体力測定の結果を説明し、「公正を期するため高得点者を優先する」と拒否したため、千秋3佐は「終身雇用を約束して採用した曹侯補士を退職に追い込んだ部隊に公正などあるか。都合が良い時だけ綺麗事を吐くな」と激昂したのだ。当然、副連隊長が叱責したが、これにも「不当人事に反論しなかった貴方も同罪だ」と言い放った上で「自分も退職する」と宣言して決然と退室した。
「私も『同じで良いかって』て確認されたから『勿論』と答えたけど、まだ手続きは始まってないのよね」裕美2曹は3連隊の1科長から電話連絡を受けた厚生班長に確認されたのだが、前もって噂を流してはいても誰も本気だとは思っていなかったらしく、まだ半信半疑だった。
幹部の退職は陸上幕僚長の決済なので秘かに話がついているが、陸曹は方面総監なのでかえって説明が難しいのかも知れない。あの滋賀陸将が「曹侯補士の退職への不満が原因」と聞けば激昂することは想像に難くなく、並み大抵の覚悟ではすまないはずだ。尤も、その役は今回の不当人事を阻止しなかった共犯者の担当なので同情は全くしない。
「本部管理中隊長から聞いた噂話では副連隊長や1科長は僕が1月1日付で2佐に昇任するから師団内で移動になって、それで気も鎮まるだろうと言ってるんだそうだ」「2佐になるのが遅れている不満が爆発したと思っているのね。馬鹿じゃあないの」裕美2曹は3連隊首脳の夫に対する人物評価を聞くと罵声を吐き出して缶ビールを飲み干した。
それにしてもこの夫は何時から幹部自衛官の大舞台・階級レースを棄権したのだろうか。1尉で結婚して3佐までは順当だったようだが、それでも他の一般(部外)課程出身者の出身大学と比べればかなり遅れを取ったらしい。最初の中隊長だったモリヤ1尉も階級や給与、賞詞と言った人事的評価には全く関心を示さなかったことは姉から聞いているが、人生観まで影響を受けるほど単純な人間ではないはずだ。何にしても2佐になりながらその地位を捨てて転進する新たな職務に同伴できることを自衛官として光栄としたい。
「ねェ、乾杯して」「へッ、何で」「乾杯」裕美2曹は次の缶ビールを冷蔵庫から持って来ると相変らずチビチビと惨めったらしく舐めている千秋3佐の目の前に突き出した。缶ビールもグラスに注いで飲めば乾杯も決まるが、缶と缶では鈍い音と不可解な弾力だけで感覚は今一つだ。それでも裕美2曹は名張の中村家で退職を告白する台本を考えているらしい夫を試合の時のような眼光を放ち始めた目で見詰めながら350ccの缶ビールを一気飲みした。
桑名の松山家の家屋は母が没した後、売却していた。元々が桑名の特産品である陶器の万古焼と鋳物の卸問屋だったので街道沿いの市街地の中心に位置し、商店にするには最適だっただけに意外に簡単に買い手が見つかったのだが、母が守山で勤務している時に亡くなったのは不幸中の幸いだった。家に残っていた家具や衣類、食器などは骨董商や古着屋に買い取らせ、売れ残った物は千秋3佐らしい割り切り方で全て破棄した。それでも桑名は名張よりも手前なので中部国際空港から経路で素通りする訳にはいかず、墓参りだけすませることにした。
「小春、ここがお父さんの家の墓だ。憶えているか」桑名市の公営墓地にある松山家の墓に参ると千秋3佐は妙に真面目な顔で小春に話しかけた。三重に帰省するのは小春が幼児だった12師団司令部に勤務していた頃以来なので数年ぶりになる。名張に裕美の実家がなければ帰省などはしないのだが、そこは愛妻家=女房孝行なのだ。
「うん、名張のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会い行く前に寄ったよね。でもお墓参りは会津のお寺の方が憶えてるよ」やはり小春にとっては12師団司令部からは比較的近い会津の中村の父の実家の菩提寺の方が記憶に残っているようだ。名張からは裕美2曹の母の菩提寺にも行ったので多少は混乱しているのかも知れない。
「ここの墓は次男だったお父さんのお祖父ちゃんが卸問屋を始める時に独立して建てたんだ。だから2代しか葬ってない。僕たちの代からはどうなるか判らないな」千秋3佐は遠回しにアメリカ行きを教えたが、小学生の小春には難しくて理解できなかったようだ。
  1. 2020/01/17(金) 13:41:31|
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