fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

中日ドラゴンズ・高木守道2塁手の逝去を悼む。

1月17日に野僧の世代の愛知県人には中日ドラゴンズの名2塁手として記憶に残っている高木守道選手が亡くなったそうです。78歳でした。
野僧の父親は実業団野球の選手だったため同じ高卒で入団したプロ野球選手には屈折した対抗意識を抱いていたらしく、大の中日ファンのアンチ読売でありながら自分と同じ守備位置のセカンドでは立教大学卒の読売の土井正三選手の方を評価していました(客観中立に見ると守備範囲や送球技術、対処能力は高木選手の方が上でした)。
また小学校の野球少年たちは中日ファンと読売ファンに分かれていて、中日ファンにとって背番号1は高木選手の番号であり、3は中(利夫)選手でした。ただし、当時は「巨人の星」が放映中だったため人数的には劣勢だった巨人ファンも意気軒昂でしたから、野球嫌いで好きな球団がなかった野僧はどちらからも「×番は誰だ」と質問されて迷惑したものです。
高木選手は訃報を伝える新聞でも「岐阜県出身」と書いていますが、実は昭和16(1941)年に名古屋市で生まれ、幼い頃に岐阜に転居してそのまま高校まで過ごしたのです。10歳の時、初めて兄と一緒に中日球場の1塁側スタンドで中日VS読売の試合を観戦したそうですが、3回裏にバックネットの最上部から出火し、球場が全焼する大火災になり、読売戦と言うことで満員だった観客の避難は困難を極め、死者3人、重軽症者318人を出す大惨事になったのです。高木少年は無事だったものの観客としてのプロ野球観戦はこれが最後になったそうです。高校は当時の岐阜県内では強豪校だった県立岐阜商業に進学し、1年生の時に立教大学4年だった長嶋茂雄選手の指導を受ける機会を得て、肩を痛めていたため遊撃手から2塁手に転向することを勧められ、監督にレギュラーとして使うように推薦してもらったとの逸話を巨人ファンから聞きました。
県立岐阜商業では1年の夏の大会で甲子園に出場して準優勝、3年の春にも出場して準優勝(この時に相手は愛知県代表の名門・中京商業だった)しましたが、最後の夏は岐阜県大会の決勝で敗れています。高校生としての試合が終わってもプロのスカウトがなく、野球人脈で早稲田大学への進学を考えていたところに中日ドラゴンズからお呼びがかかり、昭和35(1960)年に入団しました。入団して最初に出場した試合では代走初盗塁・初打席初本塁打を記録しています。昭和38(1963)年からレギュラーになり、俊足功打堅守の主力選手として活躍しますが、今一つ花がなくホームラン王・江藤慎一選手などのスター選手の影に隠れていたようです。それでも昭和49(1974)年に20年ぶりに優勝した時に親友の坂東英二投手が唄った「燃えよ。ドラゴンズ」の2番では「1番高木が塁に出て」と最初に名前が出ており(シーズン中の1番は谷木選手で高木選手は2番が定位置だった)、存在感は大きかったようです。
監督としての活躍は野球を見ないので全く知りませんが、たまたま浜松に在住している時だったため星野監督と落合監督の辞任を受けての就任だったように聞いています。
坂東版「燃えよ。ドラゴンズ」を聴きながらご冥福を祈ります。
  1. 2020/01/22(水) 12:32:02|
  2. 追悼・告別・永訣文
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<振り向けばイエスタディ1804 | ホーム | 振り向けばイエスタディ1803>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/5904-a2b7c727
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)