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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月27日・フィンランド最高の英雄・マンネルヘリム元帥の命日

1951年の明日1月27日は2000年の調査でもフィンランド国民の絶大な尊敬を集めていることが確認されたカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム元帥の命日です。81歳でした。
マンネルヘルム元帥は1867年に極めて複雑な家系にある男爵家の父親とスウェーデン系の母親の間の7人兄弟姉妹の3番目の二男として生まれました。7歳でヘルシンキの学校に入学しますが、14歳の時に父親が金融取引に失敗して破産した上に愛人の女優とパリへ駆け落ちして、その衝撃で母親が急死したため兄弟姉妹はバラバラに親戚に引き取られることになったのです。マンネルヘルム元帥は母方の叔父夫婦が後見人になり、その領地に移って勉学を継続しましたが、素行が急激に悪くなったため経済的に行き詰っていた叔父は軍学校に転校させること決め、1882年にヘルシンキの陸軍幼年学校に入学したものの素行は改まらず、1886年には無断外出が発覚して退校処分を受けました。それでロシア貴族に嫁いでいた叔母の助力を得て帝政ロシア軍の騎兵学校に入学したのです。
帝政ロシア軍では主に近衛騎兵となって皇帝の身近に侍りますが(野僧の曾祖父の弟も近衛騎兵でしたが長身の男前だったそうです)、社交界にデビューさせられると経済的な負担が過重になり、1892年に叔母の紹介で富裕な貴族令嬢と結婚しました。しかし、娘2人に続いて生まれた長男が死産だったことから夫婦関係に亀裂が入り、1902年に離婚すると1904年に始まった日露戦争では志願して満州に赴き、奉天会戦で囮である乃木第3軍の稚拙な動きから意図を見破り、日本軍の全面攻勢に遅滞を生じさせています。
日露戦争後はフランス人東洋学者のポール・ベリオの探検隊に参加し、大半を単独行動(通訳と荷役夫は帯同した)でモンゴルから中国西域、チベットに至る難路を踏破しました。
ところが第1次世界大戦中の1917年にロシア革命が生起するとフィンランドは独立を果たしますが、ロシアに呼応して共産化を画策する赤軍と独立政府を支持する白軍の間で内戦が勃発し、マンネルヘイム中将は白軍の指揮を執り独立と政治体制を守り抜きました。ところが独立政府は歴史的経緯からプロシア側に傾き、軍事的に劣勢であること見抜いていたマンネルヘイム大将はこれに強硬に反対したものの孤立し、スウェーデンに亡命したのです。結局、第1次世界大戦の戦局の行き詰まりからフィンランドに呼び戻され、停戦と独立後の政治・軍事の体制整備に尽力しました。
1939年6月1日に始まった第2次世界大戦の緒戦でナチス・ドイツとポーランドを分割したソ連はフィンランドの再度の領有を画策して11月30日に侵攻を開始した冬戦争とソ連がナチス・ドイツ軍を撃退した1941年6月25日からの継続戦争、さらにソ連との講和後、フィンランドに駐留していたナチス・ドイツ軍を放逐するラップ・ランド戦争を指揮することになり、冬戦争では勝利を収め、継続戦争では不利な戦況ながらソ連の目がドイツに向かう時期を見計らって講話交渉を行うことで独立を守りました。
第2次世界大戦後は70歳代後半で第6代大統領になったもののナチス・ドイツと同盟国だったため敗戦国に加えられ、極めて難しい政治的判断を強いられことになりましたが、それでも独立は守り抜きましたから国民が絶大な敬意を維持しているのは当然です。
  1. 2020/01/26(日) 14:26:31|
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