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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月5日・典型的な愛知県人?大角岑生大将が殉職した。

昭和16(1941)年の2月5日に場の空気しか判断基準を持たない愛知県人気質を体現し、昭和の海軍を劣化させた元凶との悪評が定着している大角岑生大将が殉職しました。
大角大将は明治9(1876)年に愛知県三宅村(現在の稲沢市)で生まれ、最も荒んでいた頃の愛知1中を卒業して海軍兵学校の予備校だった攻玉校(陸軍士官学校は成城校)を経て海軍兵学校に入営しました。明治30(1897)年に3位で卒業すると当時は数少ない艦艇を渡り歩き、日清戦争で清国から捕獲した済遠の航海長として日露開戦を迎えました。日露戦争では旅順港閉塞作戦の前段階である沈船による湾口閉鎖に参加しましたが(後に機雷の敷設に切り替えた)、乗船が機関の故障を起こして途中で離脱しています。日露戦争後は兵学校教官を皮切りに地上勤務が続きますが(最終的に大角大将の海上勤務は通算4年に過ぎなかった)、大して戦功もない大角大将が海軍内で頭角を表す切っ掛けとなったのが大正3(1914)年に発覚した巡洋艦の発注を巡り海軍軍人がドイツの造船会社から賄賂を受け取ったシーメンス事件で、この大不祥事を処理した同じ愛知県出身(犬山市)の矢代六郎海軍大臣と事件が鎮静化した後の海軍力増強・八八艦隊計画を推進した加藤友三郎海軍大臣の側近として軍政家=海軍官僚としての知名度が高まったのです。しかし、大正10(1921)年から11(1922)年のワシントン条約により加藤大臣自身が推進した八八艦隊計画を断念し、海軍内で条約派と艦隊派の対立が発生した頃にはフランス駐在武官になっていたため部外者=門外漢でした。
帰国後は平時の海軍人事の基準=海軍兵学校のハンモック・ナンバー(卒業序列)で順当に昇進して犬養毅内閣の海軍大臣に就任すると、陸軍の陸軍参謀総長が皇族の閑院之宮元帥なのに対抗して伏見宮元帥を軍令部総長にしています。さらに5,15事件の責任を取って辞職に追い込まれたものの予備役編入は免れ、定年=65歳間近の岡田啓介大将を後任にすることで昭和8(1933)年の定年後に復活を果たしてしまいました。
復活後の大角大将は後に「大角人事」と批判され続ける失政を重ねることになりますが、その元凶は愛知県人的政治判断で能力や人間性を考慮することなく軍令部総長に据えた伏見宮元帥でした。本来は軍政の海軍大臣と運用の軍令部総長は対等な立場でありながら日本海海戦での戦傷を誇示する艦隊派の御神輿として条約派の抹殺を要求するようになり、皇族の権威に盲従するまま堀悌吉中将に代表される海軍の将来を担う多くの逸材たちを予備役に編入したのです。さらに2.26事件では斉藤實(まこと)内大臣、岡田啓介首相、鈴木貫太郎侍従長の海軍大将3人が襲撃されていながら狼狽するばかりで、岡田大将の生存が確認されても放置した上、連合艦隊と横須賀鎮守府が鎮圧に向けて迅速に準備を整えていても決断を回避して何もしませんでした。この点も実に愛知県人的です。
その癖、昭和15(1940)年になると伏見宮元帥が体調不良から軍令部長の職を辞任する意向を示したことで2.26事件後に軍事参議官になっていた大角大将と永野修身海軍大臣の後任争いになり、全てで圧倒的不利であることを挽回するための大陸視察に出かけ、搭乗機が広東省の黄揚山に激突・墜落して死亡したのです。定年3か月前でした。
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  1. 2020/02/05(水) 13:21:31|
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