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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月9日・9度出撃した陸軍特攻隊員・佐々木友次伍長の命日

2016年の明日2月9日は陸軍特別攻撃隊・万朶(ばんだ)隊として9度出撃しながら目標に向かって爆弾を投下して帰還し続けた佐々木友次伍長の命日です。
万朶隊は海軍の神風(しんぷう)特別攻撃隊から約3週間遅れた昭和19(1944)年11月12日にフィリピン・ルソン島南部のカローガン基地から出撃しましたが、指揮官である将校パイロットたちが第4航空軍司令官の宴席に招かれてマニラに向かった爆撃機がアメリカ軍の攻撃を受けて全員戦死したため下士官だけの編成でした。佐々木伍長も最初の出撃に参加しましたが、陸軍では海軍のような志願制ではなく司令部の人選による命令だったため、将校を含むパイロットたちの間では「戦果を上げられるまで熟練したパイロットを突入作戦で消耗すれば陸軍は遠からず航空戦力を喪失する」と言う合理的な反対論が強く、戦死した指揮官からも「爆弾を投下して命中させれば突入して死ぬ必要はない」と指示されており、始めから「爆弾の命中」を目標にしていたと言います。
ところが随伴していた護衛の1式戦闘機・隼が「(エンジン不調で引き返した1機を除く)3機はP-38に迎撃されつつも輸送船に体当たりした」「もうもうたる黒煙を吹き、沈没寸前の大型艦2隻と炎上中の小型艦1隻を確認した」と過大に報告したのを第4航空軍司令部はさらに脚色して「最後に佐々木機が敵機の迎撃を受けつつもそのまま戦艦に垂直降下し、豪爆音を共に爆発を発した」と発表しました。陸軍は海軍が発表した「空母を撃沈」との戦果に対抗するため「佐々木伍長が戦艦を撃沈した」ことにしたようです。
しかし、実際は突入時には他の2機とはぐれてしまい、単独で敵艦隊を探してようやく揚陸艦を発見したため急降下爆撃を加えたものの爆弾は外れ、秘かに決めていた通り、ミンダナオ島のカガヤン基地に向かったのです。当然、佐々木伍長は第4航空軍司令部に呼ばれ、参謀から激しく叱責された上、「大本営発表は天聴にも達している(=天皇の耳にも入っている)。だから次は本当に戦艦を撃沈して必ず死ね」と強要されたそうです。ただ後に「敵前逃亡した卑劣漢」として非難されることになる第4航空軍司令官だけは「これと言う目標を捉えるまで何度でも帰ってこい」と理解を示したと言います。
佐々木伍長は11月15日にエンジン不調で引き返した1名を含む4名で第2次万朶隊として出撃しましたが悪天候で引き返し、11月25日に3度目を命ぜられるも離陸直前に空襲を受けて機体が損傷、それからは1名の万朶隊として6回の出撃を重ねましたが全て帰還しました。このため9度目の後、マラリアにかかって入院加療してからは「戦死者」扱いを受けることになり、第4航空軍司令官以下が台湾に逃亡した時も名簿に入れてもらえず、フィリピンに残ってアメリカ軍との地上戦に参加しますが、日本軍が壊滅した時には山奥に逃れて自作のあばら家に住みながら自給自足で生き永らえ、敗戦を知らせるアメリカ軍に投降して帰国を果たしたのです。ところが母国の復員省でも公式の戦死者では受け付けてもらえず、偶然、その場に居合わせた第4航空軍の参謀が事情を説明してようやく認められたそうです。参謀にとってはせめてもの罪滅ぼしになったのでしょう。
帰国後は故郷の北海道に帰って農業に従事して家庭を築き、93歳の天寿を全うしました。
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  1. 2020/02/08(土) 14:00:51|
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