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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月15日・戊辰戦争の影で発生した日仏の戦闘・堺事件

慶応4(1868)年の明日2月15日に和泉国・堺(現在の大阪府堺市)で土佐藩士と入港していたフランス海軍の艦艇の乗員による銃撃戦が発生しました。
この頃、薩長土肥の反乱軍の主力は江戸と奥羽越列藩同盟を制圧するため東に向かっていて、関西では大政奉還した幕府に代わって反乱軍の居残り組が治安の維持に当たっていたのですが一歩間違えば列強との戦争に発展し、将軍・徳川慶喜公が恭順の意を示して謹慎しているにも関わらず無理やり戦争に引き込んだことを万国公法違反との批判を受けていた反乱軍は極めて難しい立場に陥るところでした。
慶喜公は鳥羽伏見の戦いで敗北すると大阪城を明け渡して軍艦・開陽丸で江戸へ逃げ帰り、
そこに反乱軍の最高指揮官である皇族(東征軍の有栖川宮とは別)が入っていたのですが、土佐藩はその警護に当たっており、事件を起こした6番隊はその交代のために大阪に向かったのです。ところが到着すると皇族は大阪市内に出ていて警護要員も島津藩士と交代していましたため面目を潰された土佐藩士の6番隊は増員された8番隊と共に幕府の大阪奉行所が機能停止した後の堺の治安維持を担当することになったのです。
この頃、フランス海軍の極東艦隊が大阪湾に入っており、1月11日には神戸の三宮神社で備前藩主の大名行列の前を横切った水兵を藩士が斬ったことで銃撃戦に発展した武力衝突が発生しており、本業は儒学者で過激な尊皇攘夷思想が蔓延していた土佐藩士でも最右翼であった6番隊長は栄誉ある皇族の警護を奪われたことに始まる鬱屈を溜め込んでいたのですが、そんな2月15日に在兵庫フランス副領事と臨時支那日本艦隊司令官を出迎えるためフランス海軍の小型高速軍艦が堺港に入ると12月に大阪湾でボートが転覆してアメリカ海軍の提督のボートが溺死した事件を危惧した司令官の命令で水深の測量を無断で始めたため、これを中止させると今度は上陸して派手に遊び回り始めたのです。
住民から苦情が出て6番隊が艦に帰るように説諭しても言葉が通じず、捕縛しようとすると土佐の旗印を奪って逃走しようとしたためこれを銃撃して事件になりました。当然、フランス海軍側は応戦し、市街地で銃撃戦が始まるとフランス海軍の見習士官以下11名が射殺、若しくは土佐藩士に海に投げ込まれて溺死したのです。土佐藩は稀代の悪徳武器商人・坂本竜馬くんによって毛利藩と同じくアメリカの南北戦争の終結によって余剰になった銃器を大量に入手していたため装備においてはフランス海軍と優劣はなく対等な銃撃戦だったようです。
幕末の毛利藩による馬関海峡での外国船砲撃事件の停戦交渉では尊皇攘夷に染まった過激公家の圧力で幕府が発した「異国船討ち払い令」が原因として賠償責任を幕府に押しつけましたが今回は土佐藩が負うことになり、6番隊長以下20名が自刃に決しましたが、土佐藩士たちは立会人のフランス軍人の前で平然と腹を切り、中には自分の内臓を掴み出し、大声で恫喝する者もいたため11名まででフランス側が中止を申し入れ、9名は助命されました。これほど藩に迷惑をかけていながら帰国した9名は英雄扱いされたそうですから土佐藩の狂気も毛利藩と遜色ありません。
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  1. 2020/02/14(金) 12:51:25|
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