FC2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

日本式野球の頂点・野村克也選手&監督の逝去を悼む。

2月11日に野僧が子供の頃には南海ホークスの捕手の大打者で、親父になってからはヤクルトの名監督だった野村克也さんが亡くなったそうです。84歳でした。
日本の野球はスポーツでありながらアメリカのベースボールとは違い筋力や反射神経などの運動能力による勝負ではなく、相手の弱点を研究してそこを攻める姑息で卑劣な球技ですが、その頭脳式野球で頂点を極めたと言うべき選手で監督が野村さんでした。
野僧が子供の頃にはプロ野球と言えば読売か中日(愛知県だったため)のセントラル・リーグで、パシフィック・リーグの野村さんの活躍は元実業団野球の選手でプロ野球の解説者のようだった父親もほとんど関心を示しませんでした。しかし、選手だった野村さんは読売の王貞治さんほかの強打者と熾烈な本塁打数と打点、安打数と打率の最高争いを繰り広げていて、昭和38(1963)年には松竹ロビンズの小鶴誠さんが昭和25(1950)年に達成した年間本塁打数51本を13年ぶりに破る52本で日本記録を更新したのですが、翌年に王さんが55本を打ったので1年間だけの記録になり、読売が新聞と系列テレビで大々的に喧伝したため完全に掻き消されてしまったのです。王さんとは日本記録だけでなく毎年のように両リーグ年間の最多本塁打数や最高打点を奪い合っていましたが、最終的には王さんに軍配が上がり、同じセントラル・リーグであれば視聴者の記憶に残るのですが、マスコミが数字しか報じないパシフィック・リーグでは目に止めても忘れ去られてしまいました。ただし、捕手と言う激務のポジションで50本以上の本塁打を記録しているのはアメリカや韓国、台湾のプロ野球界を含めても野村さんだけです。
そんな野村さんが昭和50(1975)年5月22日に王さんに次ぐ史上2人目の通算本塁打数600本を記録した時の後楽園球場の観客数は7000人くらいで、インタビューで「自分をこれまで支えてきたのは王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に人々の目の前で華々しく野球をやり、こっちは人目に触れない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」と皮肉な名台詞を吐いたのです。
野村さんが頭脳式野球に開眼したのは不調に陥っていた時、謎の「阪神ファンの医者(住所・氏名を明かさなかった)」が自分で翻訳して送ってくれたアメリカのテッド・ウィリアムスさん(大リーグで2度三冠王に輝いている)の著書「打撃の科学」に「投手には球種によってフォームに癖が現れる」とあったことでした。それ以来、対戦する投手の癖を研究するだけでなく、捕手として野手を指揮するために打者の癖までも熟知して試合に活かしていきました。この経験が昭和44(1969)年から昭和52(1977)年までの監督兼務を可能にしたのでしょう。ただ、野村さんは関東以外の人気報道バラエティー番組で「監督と言う仕事はどこの球団でも同じだと思っていたが、やはり選ばなければいけない」と阪神の監督になったことを「失敗だった」とボヤいていました。
野僧は野球が嫌いですが野村さんは人物として極めて面白く、何事も究極まで追求すれば教訓が語れるようになることを実感していました。冥福を祈ります。
スポンサーサイト



  1. 2020/02/15(土) 13:00:19|
  2. 追悼・告別・永訣文
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<振り向けばイエスタディ1827(一部、実話です) | ホーム | 振り向けばイエスタディ1826>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/5955-17142251
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)