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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月17日・帝国海軍の艦艇設計の軍神?平賀譲中将の命日

第2次世界大戦中の昭和18(1943)年の2月17日は明治期にはヨーロッパからの輸入によって艦隊を編成していた帝国海軍が自らの運用思想に基づく国産艦艇を発展させる上で多大の功績を残した設計の軍神?平賀譲(ゆずる)中将の命日です。
平賀中将は明治11(1878)年に広島藩士から新政府に出仕した主計官の二男として生まれました。父親が海軍の横須賀の鎮守府や築地の海軍大学校で勤務したことで関東での転校を繰り返しながら育ち、日清戦争が後半に入った明治28(1895)年には3歳年長の兄に続いて海軍兵学校を受験しますが近視と体格検査で不合格になりました。
このため第1高等学校工科に進み、明治31(1898)年に東京帝国大学工科大学造船学科(後の工学部船舶工学科)に入学したのです。ところが翌・明治32(1899)年に両親が相次いで他界したため学費と生活費に困り、手当が出る海軍造船学生を受験して合格したことで道が定まりました(この頃、兄は佐世保鎮守府参謀だった)。
大学を首席で卒業した明治34(1901)年から造船中技師(=海軍中尉に相当)として横須賀の海軍造船廠に配属され、続々と導入されるヨーロッパ製の艦艇の整備と研究に当たりました。明治36(1903)年には大技師(=海軍大尉に相当)に昇任し、日露開戦が迫った明治37(1904)年に呉の海軍造船廠に転属しますが、明治38(1905)年の年頭にイギリスへの留学を命ぜられ、結婚してその足で旅立ったのです。イギリスではグリニッジ王立海軍大学造船科で学び、3年後に帰国すると海軍艦政本部員となる一方で東京帝国大学工科大学造船学科の講師も務めました。
大正元年からは横須賀の海軍造船廠に配属されて本格的に艦艇の設計を始め、戦艦・山城型(=戦艦・扶桑の全面的な設計変更)、巡洋戦艦・比叡型、駆逐艦・樺型を手掛けました。こうして大正5(1916)年に海軍技術本部員を命ぜられると海軍の国力を無視した艦艇増強の88艦隊計画を担当することになり、大正9(1920)年には東京帝国大学工学部造船科(前年に学制変更された)の教授として工学博士号を受けています。
平賀中将が設計した重巡洋艦・古鷹や妙高型、軽巡洋艦・夕張、駆逐艦・神風型や若竹型など(戦艦・大和型も)は当時の欧米の艦艇と比べて兵装が強力な上、高速度で大きな脅威を与えましたが、三菱重工業社製の零式艦上戦闘機や1式陸上攻撃機が海軍の無理な要求を丸呑みするため機体の防弾性などを犠牲にした軍用機としては欠陥機だったのと同様に船舶としての設計と艦艇としての武装の均衡・整合が不十分で戦闘行動中の急激な操舵での安定性や弾薬の運搬経路などで多くの問題点が指摘されていました。
それでも生前から神格化が進んでいたようで亡くなった翌年には東宝が伝記映画「怒りの海」を公開していますから、自分の意見を絶対に曲げないことで「(名前の)譲=ゆずるではなく不譲=ゆずらずだ」と陰口を叩かれるような存在だったのでしょう。
ちなみに昭和13(1938)年からは東京帝国大学の総長を務め、在任中に亡くなったため史上唯一の大学葬が営まれ、大脳は付属病院で取り出されて現在も東京大学医学部に保存されているそうです。
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  1. 2020/02/17(月) 13:50:51|
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