FC2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1830

美恵子が香港で理容店を開いて間もなく半年になる。場所は香港北部=九竜半島の対岸の行政府の官庁街と海外の金融会社の支店などが立ち並ぶ中環のビルの1室で、香港人が営業していた理髪店を購入したものだ。したがって利用に必要な大道具は揃っていて早々に開店できた。
「ニンハオ、いらっしゃいませ」開店前には地元の新聞に広告を掲載し、美恵子が日本の理容師の国家資格を持っていることを大々的に宣伝したので日本企業の香港支店で勤務する社員たちが利用するようになっている。美恵子としても長年の念願だった理容師としての仕事に本格的に取り組めるのだから張り切らないはずがない。
「内藤さんは裾と揉み上げを長めでしたね」「うん、もう憶えてくれたんだね。流石は日本のプロだな」理容師としての美恵子は人一倍の努力家で勉強家だ。毎日、来店する客の毛髪や髭の特徴や整髪の好み、さらに会話内容に関する詳細なノートを取っていて、それに防犯カメラの映像から複写した顔写真を添付して医者のカルテのような記録を作成している。
「美恵子さんは腕が良いけど、どこで修業したんだい」日本人の客は日本語での会話も楽しみにしている。この空間を日本の床屋・散髪屋にしているらしい。
「沖縄の那覇と山口県の防府、香川県の善通寺です。東京にも勉強に通いました」「ふーん、那覇は兎も角として山口県と香川県に理容師の修業に行くのは珍しいね。どちらも流行から取り残されたような田舎町だろう」「はい、色々あったんです」美恵子は頭のノートで修業した場所として防府と善通寺にバツ印を点けた。内藤は2回目の来店なので遠慮があるが、馴染みになれば防府と善通寺に行った理由を追求されかねない。そうなれば自衛官のモリヤと結婚していたことを告白しなければならなくなる。
「内藤さんは肌が弱いようですから深剃りはしません」「日本に置いてきた女房よりも僕のことを心配してくれるんだね。何だか嬉しくなっちゃうよ」この行き届いた接客は内藤に限らず、日本人、香港人、中国人を問わずに行っているから客は増える一方だ。最近は行政府の役人も顔を出すようになってきた。その時は当然、広東語だが内容に大差はない。
「趙さんのヘアトニックはイギリス製でしたね」美恵子はスナックのママだった時の経験から何種類かの男性用化粧品をキープ・ボトルのように並べ、好みに合わせて使い分けるようにした。ただし、横文字が読めないので名前は憶えられなかった。
「メイファイスー(美恵子)は理髪の腕だけじゃあなくて中国語も中々上手いけど、どこで覚えたんだい」「はい、中餐庁(=中華料理店)で働いていました」「どこで」「沖縄です」趙は香港行政府の役人だが着ている服装から見て高級官僚ではないようだ。美恵子は沖縄を出発する前、中国語教室で講師から香港での言動上の注意事項の指導を受けた。香港地域内には行政府の役人だけでなく一般市民にも共産党中国の公安関係者が潜入していて外国人や現地出身の香港人を監視していることを強調し、あくまでも台湾とは無関係の日本人として生活するように指導された。さらに店舗や借家には盗聴器や監視カメラが設置されており、国際電話は傍受され、海外郵便物も検閲されているから油断ばできないとも言われている。
「沖縄には我が国の企業が進出しているから中餐庁も繁盛しているだろう。沖縄県の首脳たちも凋落した日本よりも繁栄する我が国に臣従したいと言っている。日本に併合されるまでは中華皇帝に朝貢していた歴史があるからな」趙が歴史講座を始めたが美恵子には苦手な話題だ。それでも顔が鏡に映っているので興味深そうな目の表情を作った。
「歴史と言えば昨年の騒動は許せんな」鏡の中の趙の目つきが険しくなった。美恵子は自宅では新聞のテレビ欄以外は読まず、中国語教室でも政治的な話題は避けているようだったので昨年の香港の騒動と言われても理解できない。昨年、日本で起きた大震災や首相の交代さえも説明する自信はない。その代わり東京で流行している髪形なら熱弁を揮いたくなる。
「趙さん、アシメ・ツーブロックにしてみませんか」美恵子は無意識に提案してしまった。それが無意識に中国語になったのは語学力の発揮だろう。
「アシメ・ツーブロック・・・何だねそれは」「東京の男性の間で流行している髪形です。七三分けで裾を短めに借り上げて、伸ばした前髪を長めに流して少し遊び心を入れるんですよ」説明しながら切る前の趙の髪で作って見せてみた。確かに雰囲気は若くお洒落になる。30歳代後半の趙は興味深そうに鏡の自分の顔を見入った。
「そう言えば東京から来る日本人はこんな髪形をしてるな」「お洒落七三かも知れませんよ」そう言いながら手早く髪形を変えると趙は身を乗り出した。ここで趙が東京で流行している髪形にして職場に帰ってくれれば宣伝効果が絶大だ。できればネーブレスも試したいが茶髪に染めることが前提になるので無理押しはできない。
スポンサーサイト



  1. 2020/02/19(水) 12:21:42|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<振り向けばイエスタディ1831 | ホーム | 2月19日=プロレスの日=木村政彦・力道山組がシャープ兄弟と対戦した。>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/5962-bafe25dc
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)