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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月22日・空中戦アジア・カップの覇者・赤松貞明中尉の命日

昭和55(1980)年の明日2月22日はアジア+太平洋空域での空中戦に出場していた各国の戦闘機に全勝した赤松貞明中尉の命日です。69歳でした。
帝国陸海軍が航空機による戦闘を始めた支那事変以降の撃墜数では陸軍が控え目な性格のため自己申告は「30機くらい」、目撃証言を含めた公式記録では「少なくとも76機」の上坊良太郎大尉、海軍は自己申告で202機、公式記録では80機の岩本徹三少尉が撃墜王になります。一方、赤松中尉の撃墜機数は自己申告が350機以上でも公式発表は38機なので両者には及びません。しかし、海軍の戦闘機乗りの多くが航空母艦から発艦してアメリカ海軍の艦載機と対戦していたのに対して赤松中尉は主に地上基地を転戦して国民党軍、フィリピンのアメリカ陸軍航空軍団、イギリス軍、オーストラリア軍、そしてアメリカ海軍の航空母艦からの戦闘機との空中戦に勝利し、飛来したB29も撃墜している記録は特筆すべきでしょう(惜しむらくはノモンハン紛争に参戦していないのでソ連軍と対戦していない)。それでいて機体に受けた銃弾は5発のみです。
赤松中尉は明治43(1910)年に高知県加美郡赤岡町(現在の香南市)の測候所(現在のアメダス気象観測所)の所長の息子として生まれました。昭和3(1928)年に中学海南校(現在の高知小津高校)を卒業して佐世保の海兵団に入営すると昭和5(1930)年には操縦練習生(後の予科練)になり、2年の教育課程を終えて艦載の水上機や初期の航空母艦での飛行を経験した後、操縦練習生時代の教官だった源田実大尉が編成した曲技飛行チーム=源田サーカスに参加しました。
昭和12(1937)年末に支那事変の拡大で編成された上海の航空隊に配属され、翌年2月25日の南昌爆撃の護衛で初陣を飾りましたが目標上空で高度を下げたところを高空の雲中から降下してきた倍数の敵機との空中戦になり、単機同士の空中戦訓練しか経験していなかった海軍機は隊長以下が撃墜される苦杯を味わったのです。この経験で編隊での空中戦の訓練の必要性を痛感してその研究と実技に明け暮れたようです。その後も武勇伝を重ねますが、国民党軍が使用していたソ連製の戦闘機ポリカルポフI15とI16の性能・武装は日本海軍の96式艦上戦闘機を上回っていて苦戦を強いられたようです。
昭和16(1941)年に日本が第2次世界大戦に参加すると赤松飛行兵曹は大陸での爆撃機護衛の経験を買われて航空母艦ではなく台湾の地上基地に配属され、零式艦上戦闘機でフィリピン攻略に伴う爆撃に参加してアメリカ陸軍基地のP40を撃墜し、さらに南方戦線を転戦してイギリス軍やオーストラリア軍のスピット・ファイアを撃墜しました。
そして戦争末期には内地に戻り、雷電を駆って日本近海で行動するアメリカ空母艦隊の艦上戦闘機や硫黄島陥落後は「世界最強のプロペラ戦闘機」と言われるアメリカ陸軍のP51ムスタングとも熾烈な防空戦を繰り返しています。
そんな赤松中尉は男気あふれる長身の美男子だったため女性から非常にもてて周囲からは「松ちゃん(愛称)が一番撃墜したのは女だ」と嫉妬混じりの皮肉を言われていました。
敗戦後は高知に帰り、漁協で働きながら西日本軽飛行機協会の活動も続けていたそうです。
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  1. 2020/02/21(金) 13:44:41|
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