FC2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月30日・戊辰戦争の影で起こったイギリス公使・パークス襲撃事件

戊辰戦争は勝海舟さんと西郷南洲さんの会見から9日後、江戸城無血開城の2週間前だった慶応4(1868)年の明後日2月30日(当然太陰暦)の京都でイギリスのハリー・スミス・パークス公使が尊皇攘夷の過激派浪士に襲撃される事件が発生しました。
この日、パークス公使は天皇との会見のため通訳のアーネスト・サトウさんや在北京のアルジャーノン・フリーマン=ミッドフォード公使と共に宿舎の知恩院を出発し、行列の先頭を接待役の土佐藩士・後藤象二郎さんとその子分だった脱藩島津藩士・中井弘蔵くんが馬で進み、3人の周囲はイギリス陸軍の派遣隊が固め、さらに警護として肥後藩士300人が同行して御所に向かっていたのです。一行は知恩院の山門側の参道である新橋通りを西へ進み、突き当りを右折して大和大路通りを北に向かい、三条大橋で鴨川を渡って御所に入る予定だったのですが、行列の後尾の騎馬隊が大和大路通りに曲がった時に見物人に紛れていた京都出身の朱雀操くんと奈良出身の三枝翁くんが抜刀して襲いかかりました。
朱雀くんは列に沿ってイギリス陸軍の護衛たちを斬りまくりながら走り抜け、パークス公使たちに迫りましたが、急を知った中井くんが馬で駆けつけて下馬して刃を斬り結びました。ところが袴に足を取られて仰向けに転倒しましたが朱雀くんが振り下ろした刀が地面で止まり、逆に中井くんが下から胸を突き刺したところに遅れて駆けつけた後藤さんが背後から肩を斬りつけ、起き上った中井くんがとどめを刺して首を討ったのです。朱雀くんの犯行によってイギリス陸軍の兵士11人が負傷しました。
その隙に三枝くんはパークス公使に向かって駆け寄り、先ずはイギリス陸軍の兵士1人を斬りましたが、他の兵士に銃で足をすくわれて転倒し、そこを銃剣で刺突されて重傷を負い、民家に逃げ込んだところで銃弾を顎に受けて捕縛されたのです。この時、300人の肥後藩士は傍観していただけで全く動かなかったと言われています。
結局、三枝くんも3日後に粟田口の刑場で斬首され、朱雀くんの首と並べて3日3晩晒されましたが、イギリス人が絡んだ事件だけに処刑直前の三枝くんと朱雀くんの生首の鮮明な写真が残っています。そして2人を手引きしたことが発覚した土佐郷士・中岡慎太郎さん(=後藤さんとは不仲だった)の陸援隊の残党3人も官職を解かれた上で隠岐の島に流罪になりました。
大政奉還後も薩長土肥と公家が倒幕の口実に使っていた尊皇攘夷を信じ込んでいる狂人は脱藩浪士に限らず各藩の藩士にも存在したようで、島津藩の生麦事件に倣ったように備前藩主の行列の前を横切ったフランス海軍の水兵を藩士が斬った神戸事件や治安維持に当たっていた土佐藩士が上陸して騒いでいたフランス海軍の軍艦の乗員たちと銃撃戦を行った堺事件などが続発していて、国内向けには王政復古の大号令によって天皇親政が成立しても、諸外国から徳川幕府に代わる新政府として認められるかは微妙な状態だったのです。
このため朱雀くんと三枝くんはそれまでの外国人殺傷事件で処刑された尊皇攘夷の狂人たちが明治政府によって「志士」として靖国に祀られたのに対して「罪人」として除外されていて靖国の宗教性の欺瞞を証明しています。
スポンサーサイト



  1. 2020/02/28(金) 14:07:33|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<振り向けばイエスタディ1840 | ホーム | 振り向けばイエスタディ1839(一部、実話です)>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/5981-ab5a1c5a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)