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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1846

ホテルに戻ると梢と一緒に宿舎に向かい引っ越しを始めた。宿舎は国際刑事裁判所が職員用に確保しているスケベニンゲン=スヘフェニンゲンのマンションだが、長い歴史を持つ国際司法裁判所はスフラーフェン・ハーブの中心街に近い古い一戸建てらしい。
「お前の荷物も届いてるじゃあないか」「うん、貴方に訊いた住所宛てに送っておいたから間に合ったわ」マンションの管理人のところに届いている航空便の中にはかなり梢の荷物も混じっている。外務省から届いた赴任に関する資料の住居の説明には1LDKとあり、「狭い=独身用」と思っていたが、そこに2人住まいとなると若い頃のアパートでの生活の再現になってしまう。ただし、管理人には日本から連絡しておいたから特に問題はない。
「若し、ワシがお前の同行を拒否したらどうするつもりだったんだ」それにしてもこの手回しは博打に近い。私が少し叱責を込めた質問をすると梢は笑いながら答えた。
「そこは押し掛け女房よ。貴方が開けてくれるまでドアの外に立っているわ。歩道から見上げてるって手もあるね」結局、私の人間性を熟知し、精神が赤い交信ケーブルで接続されている梢としては拒否されることは全く考えていなかったようだ。
「この作りがヨーロッパ風なんだね」管理人に借りたカートに荷物を山積みにして新居に運ぶと先に部屋に入った梢が感心したように声を上げた。開けっ放しになっているドアに入ると自衛隊の幹部用官舎1軒分の広さのリビングが広がっている。広さでは佳織と志織がオレゴン州で住んでいたアメリカ陸軍の学生用の借家とも遜色はない。資料にあったように家具から家電製品まで設置されているため居住方法も一目瞭然だが、この広いリビングは手前から台所、中央にテーブル・セットと壁側に事務机、奥の窓際にソファー・セットやテレビとCDステレオが置いてあり、調理、食事、書斎、居間兼応接の4つに使い分けるようだ。
「問題は寝室が1つしかないことだな。表向きは妻じゃあないから一緒に寝る訳にはいかないぞ」私は段差がない玄関をカートを押しながら通過してリビングで止まると周囲を見回しながら独り言を呟いたが、梢は家具を確認していて聞いていない。
「来訪者への言い訳としてワシは仕事のついでにソファーで寝ていることにしよう」結論も独り言で出したものの実際は一緒に寝るのだから独り言で良かった。
「やっぱり裁判所で働く人の部屋だから大きな書棚がついてるね」台所とテーブルの間にカートの荷物を下ろしていると「書籍」と漢字で表記した箱を書斎に運んでいる梢が声をかけてきた。言われて顔を向けるとリビングの中央の壁に普通の本棚3つ分くらいの書棚が作りつけてある。私の荷物は相変らず書籍が多いが、仕事に関係ない佛教書などは船便で送っているのでまだ届いていない。この大きさなら全部揃っても収納できそうだ。
「箪笥はどうだい」「多分、寝室でしょう。見てくるね」専門書が詰まって重い段ボールを運んだ梢は両腕を回しながらリビングの中央の短い廊下に入っていった。この窓側が寝室、通路側はバス・トイレ、洗濯機の水回りのようだ。
「そうかァ、日本みたいな押し入れはないんだね。壁が全面箪笥になってるよ」寝室の中から梢の報告が聞こえる。考えてみれば押し入れは布団を使用する日本式家屋の優れた収納構造だ。布団を畳めば寝室は居間に換わり、万年床に比べて布団と畳の乾燥にもなる。
「独身用の割にベッドはダブルだね。単身赴任用なのかもね」梢の声が妙に嬉しそうなので覗きに行くと日本で言えば八畳ほどの部屋の中央にホテルのようなダブル・ベッドが置いてあり、壁側にクリーニングのビニールで包まれた布団が積んである。それもヨーロッパ人用だけに大きく見えるがオランダ規格ではセミ・ダブルかも知れない。ベッドに並んで腰を下ろすとやはり日本製よりも少し高く、クッションは固めだ。
「貴方と暮らしていた頃はシングルの布団だったでしょう。安眠できないんじゃないかって心配してたんだよ」私にとって梢のアパートに泊まるのは同棲ではなく宿泊だったのだが、梢は果たせなかった結婚への序章にしているらしい。私と美恵子の結婚は結末が泥沼になっただけでも梢は始めから悲劇だった。だから私との思い出を守らなければ救われようがないのだろう。
「ワシはお前がすぐ傍に寝ているから安心して熟睡してた。お前の寝息が子守唄だったな」梢が語り始めた思い出話は感動的に展開し始めたが、そんなことをしている場合ではない。荷物の片づけが終われば必要品を買いに出なければならないのだ。
「貴方の服はあの箪笥に仕舞うね。制服類はあのロッカー式に吊るから持ってきて。私のも忘れずに」「お前が先だよ。そっちの方が多いだろう」思い出話は意外に簡単に切り上げられた。これからは思い出を語り合う時間は幾らでもあり、新たな思い出を作っていくのだから感傷に浸る必要はない。しかし、私たちは夫婦ではなく恋人同士だからこれは同棲なのか。
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  1. 2020/03/06(金) 12:45:02|
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