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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1849

アルバート・ハインへは市電のトラムで出かけたが、買い物から戻る途中で見つけた自転車屋で2人の自転車を買った。デン・ハーブ=スフラーフェン・ハーブは飛び地を除けば北東南西が10キロ強、北西南東が10キロ弱なので移動手段としてはこれで十分だ。ただし、ヨーロッパのマンションでは地上に駐輪場がなくエレベーターで自宅まで持って来るようだ。
「貴方、運動の時間よ」梢は買ってきた食材と調味料、小物などの片づけを終えると作務衣に着替えた私に声をかけた。備えつけの壁時計のオランダ時間を見ると4時を過ぎている。10月の日没は7時過ぎなので出かけるにはやや遅れ気味だ。
「早速、自転車でサイクリングか」「昨日は運動していないから散歩にするさァ。近所を探検しようよ」梢と一緒に生活していれば健康も自己管理ではなくなる。私は玄関脇の靴箱の中から梢がしまった運動靴を出した。国際刑事裁判所は呼び出しに応じられることを前提に在宅勤務が容認されているのでスマート・フォンの番号を知らせてあるが、それを忘れては元も子もない。充電を確認して肩に提げた頭陀袋(ずだぶくろ)に入れた。
「日が暮れると冷え込むよ。1枚羽織る物を持っていった方が良いんじゃない。頭は裸じゃない。帽子も忘れずに」「どこにしまったんだ。衣類の収納場所は知らないぞ」梢は私の反論を背中で聞きながら寝室に歩いて行った。これは美恵子や佳織との生活では吹かせたことがない亭主関白風だったのかも知れない。梢とは互いに尽し合うことが喜びなので遠慮は不要だ。
「作務衣に似合う帽子はないからタオルを巻いてね。上に羽織るのは薄いウィンドブレーカーで良いでしょう。畳めば坊さん用ポシェットに入るわ」「坊主用ポシェットでも間違いじゃあないけど、これは頭陀袋って言うんだ」梢が手渡した防寒用具を頭陀袋に詰めながら説明すると相変らずの好奇心を顔に浮かべてうなずいた。
「取り敢えず海岸が見たいな」マンションの管理人に挨拶して外に出ると梢は手を取って歩き始めた。気分だけでなく行動まで昔に戻っている。一緒に50歳を過ぎた梢が20歳代前半に見えてくる。それでも私は初老の小父さんだ。
スケベニンゲン=スヘフェニンゲンは郊外の住宅地なので日本で言えばマンションとアパートの境界線のような2階から4階建ての集合住宅が並んでいるが、建物の外観は純粋にヨーロッパ風で何よりも敷地の間隔が広い。
「デン・ハーブの人口密度は5800人、那覇市は7950人のはずなのに居住空間が全然違うね。私たちのアパートなんて隣りの家のテレビの音が聞こえてたさァ」梢は思い出話にも知識をまぶしてくる。確かにあの頃の梢のアパートは那覇市の外れの住宅が密集している地域に在ったため、鉄筋3階建てのアパートの回りには古い民家が迫っていて、2階のベランダからは赤い屋根が間近に見えた。人口密度は1・5倍だが居住空間は10分の1に思えてくる。
「それでも那覇市は戦争で焼け野原になった後は元住民が好き勝手に家を建てたはずだから、あんなに密集する理由はないはずだよ。要するに都市計画が機能しなかったんだろう」「それは今も同じだね。やっていることが滅茶苦茶だもん」安心感を与える低い集合住宅が整然と並んでいる街と以前にも増して雑然とした今の那覇市を思い比べて梢の顔は不満そうに膨れた。
アルバート・ハインの書店で買ってきた英語版の観光ガイドによるとスケベニンゲンはオランダでも有名なリゾート地なのだそうで、海岸線にはワイキキ・ビーチほどではないがリゾート・ホテルが並び、展望台と観覧車や海辺の彫像美術館などがあるようだ。しかし、秋の色が深まっているので人影は地元の人が砂浜を散歩しているくらいだ。
「これが北海かァ、やっぱり海の色が冷たそうね」「そりゃあ沖縄のコーラル・グリーン(珊瑚礁の緑)とは違うよ。ワシは本土の海を知っているから違和感はないけど、やっぱり冷たそうだな」そうは答えたものの泳げない美恵子と海水浴に行ったのは沖縄本島南部の実家に近い新原ビーチだけで淳之介の水泳は駐屯地のプールで教えた。水泳の達人・佳織との海水浴はハワイに帰るようになってからだ。やはり沖縄の海を知ってしまうと瀬戸内海や伊勢湾・三河湾で泳ぐ気にはなれない。
「那覇の海って西側にあるでしょう。だから山に沈むのを見ると不思議な気持ちになっちゃうの」これも思い出に重なる。梢とは北風に日には今では埋め立てられて見る影もない那覇市の西岸に行って防波堤から慶良間諸島の島影に沈む夕日と代わりに輝き始める星空、そして那覇空港からコ―ション・ランプを点滅させながら離陸する旅客機を見ていたものだ。
「ここの海は北西側にあるから日没は海岸線沿いだな」「こっちかァ。山じゃあないけど変な感じ」私の答えに梢が視線を海岸線に向けた。今日はホテルとの奥に在った海辺の彫像美術館を鑑賞して帰った。これから2人で散歩するのが楽しみになる「村」なのを実感した。
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  1. 2020/03/09(月) 13:51:49|
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