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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

講道館・嘉納行光第4代館長の逝去を悼む。

3月8日に講道館柔道の創始者・嘉納治五郎先生の孫にして昭和55(1980)年から2009年まで講道館第4代館長を務め、晩年は名誉館長の職に在った嘉納行光館長が亡くなったそうです。88歳でした。
野僧は中学校の教師の伯父が海上自衛隊生徒と水産高校通信科への志望に反対するのに吐いた暴言「船乗りなんて港港に女を囲うふしだらな人間だ」「長男が家を空ける職業に就くことは許されざる親不幸だ」を父親が言い続け、海上自衛官を目指して入部していたヨット部も退部させられたところに柔道部と空手部から警察官になった2学年上の先輩に「自衛官になるなら武道を経験しておくべきだ」と誘われて柔道部に入ったのです。
すると投げて投げられての練習が意外に面白く白帯が茶帯になり、その頃には教室でビーパップな同級生が仕掛けてくるプロレスごっこで足払いや大外刈り、払い越しを決めるなどして護身の役に立つことを実感し、やがては黒帯になりました(現在は2段)。おまけに練習と同時進行で嘉納治五郎先生の著書を含む柔道の本を読み漁り、月刊柔道マガジンを定期購読していたので上部組織の内部事情と行光館長の就任も知っていました。
講道館は創始者・嘉納治五郎先生が夏の東京と冬の札幌の両オリンピックの誘致の成功を見届けた昭和13(1938)年5月4日に帰路の船中で急逝されると嘉納先生の姉の息子である南郷二郎海軍少将が2代を継ぎましたが、敗戦後に占領軍が武道を「日本人を軍国主義化した手段」と否定したため「元軍人が館長では都合が悪い」と昭和21(1946)年に退任し、嘉納先生の二男である履正館長が46歳で3代を継ぎ、昭和24(1949)年には柔道が体育教育であることを明示するために結成された全日本柔道連盟の初代会長に就任しました。
履正館長は戦前から優れた指導者が種を蒔いていたヨーロッパで柔道復活の気運が高まったのを察知すると国際化を推進し、1952年には全日本柔道連盟が前年に設立された世界柔道連盟に加入してその年から東京オリンピックが終わった1965年まで会長を務めました。ただし、履正館長の後任のイギリスのジョージ・カー会長は自身が柔道家(国際連盟認定10段)であってもメキシコ市オリンピックでの競技種目を維持できず、経験者が優れた必ずしも組織経営者足り得ないことを証明してしまいました。一方、行光館長は国際柔道連盟の会長には就任しておらず、あくまでも講道館の館長と全日本柔道連盟の会長として国際化の名の元にレスリングの様式を持ち込もうとするヨーロッパ各国の柔道連盟に本家として監視・反対・妥協する立場でした。確かに試合場の外枠を線から赤色の畳1枚にしたことや白と青の試合用の柔道着など国際柔道連盟の合理主義には有益な点も少なくありませんが、ポイント式の勝敗判定は一本を狙って技を仕掛ける柔道の醍醐味を阻害しているのも確かです。それでも創始者の嘉納先生は海外に指導者を送りだす時、「日本人が勝てなくなるくらい海外で柔道を発展させたい」と激励されたそうですから、他の武道のように伝統に固執するのは柔道の本来の姿勢・態度ではありません。
補足すれば現在の講道館の5代館長は上村春樹9段です。ご冥福を祈ります。
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  1. 2020/03/12(木) 14:10:13|
  2. 追悼・告別・永訣文
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