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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1865

照子は妊娠5カ月に入るとつわりも収まり、ラジオの収録も元の名調子に戻っていた。これまでは洗面器を足元に置いていて、吐き気を催すと歌が流れている間に嘔吐してスタジオの洗面台口をすすぐだけで放送を継続していた。
「こんばんは こんばんは こんばんは も1つおまけにこんばんは 雪うさぎです。今年も大雪山の山頂に雪が積もって雪うさぎの季節がやってきました」北海道の屋根である大雪山系は9月中旬には初冠雪する。しかし、それから1ヶ月が過ぎても今年の秋は気温が高く、まだ積雪は少ないようだ。このため旭川からの遠望では雪は見えない。
「最初のメールは旭川市内の醤油ラーメンさんからです・・・そうですね。札幌が味噌、函館が塩なら旭川は醤油ですよ・・・妊婦になった雪うさぎさん、調子はどうですか・・・おかげさまで母子ともに元気です。私の勘違いはラジオでも告白しましたけど、今は5カ月に入ってようやく落ち着いてきました」夏の放送中につわりを起こした時、照子はそこから起算して10カ月後に出産すると勘違いしていたが、旦那さまと産婦人科に通院すると最終月経日からの計算で5週間目に入っていた。つまり予定日は初夏ではなく春だった。
「ウチの嫁も30歳過ぎの初産でしたから色々と心配でした・・・優しいんですね。ウチの旦那さまも優しいけど牧場の仕事と屯田兵の訓練もあるから中々私にまで気持が回ってきません・・・」森田士長が広橋牧場で働き始めて間もなく1年になるが、慣れてくれば要領を使って楽をするのとは逆に自分で探して仕事を増やし、訓練も限界を追及して厳しくするばかりだ。そのため照子が帰宅しても部屋に1人で待たされることになり、時には「仕事と私のどっちが大切なの」と妊婦の情緒不安定を妙な嫉妬にしてしまうこともある。
「そこでお2人の子供さんのためにこの歌をリクエストします。胎教にも好いですから家でも聴いて下さい・・・へーッ、沖縄の歌ですね。古謝美佐子で『童神』です」メールを読み終えてガラス越しに担当者に視線を送ると間もなく三線(サンシン=蛇皮線)の音色が響き始めた。ここで照子は手を喉から胃に這わせてつわりの前兆を確認したが異常はない。照子はホッと溜息をつくと歌を聴きながら資料を確認し始めた。
「天(てぃん)からぬ恵み 受きてぃ此(く)の世界(しけ)に 生まりたる産子(なしぐわ) 我身(わみ)ぬむい育(すだ)てぃ・・・」シマグチ(沖縄方言)の歌詞では取聴者には理解できない。そう考えた照子は夏川りみのヤマトグチ(標準語)の歌詞カードを用意している。それを読みながら古謝美佐子の歌を聴くと意味が胸に染みてきた。
「・・・泣くなよーや ヘイヨーヘイヨー 太陽(てぃだ)の光受きてぃ ゆういりヨーや ヘイヨーヘイヨー 勝(まさ)さてぃ給(たぼ)り・・・」この素朴で力強い親心を噛み締めていると目に涙がにじんできた。夏の放送では植村花菜の「トイレの神様」の祖母が死んだ場面で湧き出た涙を飲み込んだことがつわりを誘発した。照子は机の上のティッシュを取ると唾として涙を吐きだした。するとそこで曲が終わった。
「どうも有り難うございました。沖縄方言では歌詞の意味が判りにくいかも知れませんが、天から授かった子どもを我が身にかけて育てる。太陽の光を受けて立派に育ってちょうだい。夏には涼しい風を送り、冬には懐に入れる。月の光を浴びて大人に育ってちょうだ。南風が吹く此の浮世を渡る。風が強くても花を咲かそう。天の光を受けて偉い人になってちょうだい。と言うような歌詞だと思います」実は夏川りみの歌詞カードでも沖縄固有の単語や微妙なニュアンスは理解できなかった。それでも北海道の取聴者には十分だろう。
「この歌は1997年に古謝美佐子が作詞してNHKのみんなの歌で流れたのだそうです。でも私は2003年の『ちゅらさん2』で恵里の弟の恵達の子供を祥子が産む時に東京の居酒屋・ゆがふで古謝美佐子が蛇皮線を引きながら歌っていたのを憶えています。旦那さまば中学時代を沖縄で過ごしたから子供が生まれたら子守唄に唄ってくれるかも知れません。でも折角なら沖縄方言で唄って欲しいな。標準語にすると何だか替え歌みたいですから」おそらく広橋牧場で放送を聴いている森田士長は悩んでしまったはずだ。自衛官の息子として沖縄で過ごした森田士長は中学校の友だちは官舎の同級生が中心で、シマンチュウ(沖縄の人)は部活動の仲間くらいだった。だから沖縄方言が得意な訳ではない。
「醤油ラーメンさんのおかげで私もただの妊婦から母親候補生になれたような気がします。もう一度、有り難うございました」照子は次のメールに移ったが、ガラスの向こうで担当者は難しい顔をした。照子の産休の問題はつわり騒動の後にも議題になったのだが、照子の体調が落ち着いたことで先送りになっている。東北地区太平洋沖地震後のDJボランティアの時は震災を伝える特別番組で埋め合わせたが、今回は人気番組を代行できる者が見つからないのだ。照子の本業である本屋の店員は経営者が高校時代からの友人だけに期限なしの産休になった。
く・音無響子イメージ画像
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  1. 2020/03/25(水) 12:24:19|
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