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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月28日・ロシアの作曲家・ムソルグスキーの命日

1881年の明日3月28日は管弦楽曲「禿山の一夜」やピアノ組曲「展覧会の絵」を作曲したモデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキーさんの命日です。42歳でした。
野僧は中学時代からモスクワ放送を愛聴していたためロシアのチャイコフスキーさんやソ連のショスターコーヴィチさんなどの名曲に慣れ親しんできましたが、幹部候補生の時に音楽大学卒・音楽幹部指定・中央音楽隊長予定の同期が「禿山の一夜」を五厘刈りにしている野僧の「テーマ曲」に決めたためミュージック・テープを買う羽目になりました(他の同期が勝手に買ってきて代金を払わせられた)。
「禿山の一夜」は本来、民族派の作曲家5人組で共同制作を進めていたオペラ「ムラーダ」の一幕、「聖ヨハネの祝日=夏至の前夜に禿山に地霊が現れて、手下の魔物や幽霊、精霊たちと馬鹿騒ぎして、夜明けと共に消えていく」情景を描いた作品です。このためショスターコーヴィチさんの交響曲第5番第4楽章(日本では勝手に「革命」と言う題をつけている)の出だしと同じくティンパニの連打から始まる劇的な曲で、管弦楽曲に分類されながらシンバルなどの打楽器が非常に効果的に用いられている上、管弦楽器も一気に演奏を始めるなどの演出効果で非常に迫力があります。ただし、オペラ「ムラーダ」は共同制作としては未完成に終わったため他の作品に度々引用され、派生曲が複数存在します。
ムソルグスキーさんは1839年にバルト3国の内側に位置するプスコフ州の地方君主の末裔として生まれました。6歳の頃から母親にピアノを習うようになり、かなり上達したものの10歳でサンクトペトロブルグのエリート養成学校に入学すると軍人を志望するようになりました。そうして13歳で士官候補生になりましたが、多くの文化人と交流を持ったことで音楽に興味が移り、19歳で退役しました。この頃、美少年と出会い同性愛にも目覚めたそうです。退役後はロシア帝政の文官に転身するのと同時に高名な音楽家からドイツ音楽を学んで作曲活動を本格化させますが、豪農でもあった実家が没落してしまいました。ところが謝礼が払えなくなったことで音楽家からの指導が受けられなくなり、かえって自由な作風を追及していったのです。しかし、1865年に母親が病没すると喪失感を忘れるため酒に溺れるようになり、これが死因となるアルコホール依存症につながっっていきました。オペラ「ムラーダ」が頓挫すると1872年に「禿山の一夜」を合唱曲に改作し、これが好評だったことでムソルグスキーさんは人気作曲家に加わりましたが、この頃からアルコホール依存症が深刻化して、1880年に公務員を失職すると生活が困窮したため1881年には年頭から4度も心臓発作を起こし、この日を迎えたのです。
「展覧会の絵」は友人の画家・ヴィクトル・ハルトマンの遺作展で10枚の絵を見た時の心の動きを曲にした作品で、それぞれの絵画の全く異なる印象を曲で説明しているだけでなく、歩いていることを表現した「フロムナード」の曲調も変えて、見た絵を考えながら次に向かっていることを聴く者に暗示しています。野僧は春日基地で親しくしていた西部航空音楽隊長に「(展覧会の絵の)フロムナードを徒歩の巡閲に使えないか」と提案したことがありますが、「盗作はできない」と拒否されました。
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  1. 2020/03/27(金) 12:27:28|
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