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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月28日・ロシア人の作曲家でピアニストのラフマニノフの命日

1943年3月28日は帝政ロシアの偉大な作曲家とピアニストでありながら共産革命後はヨーロッパとアメリカに活動拠点を移していたセルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフさんの命日です。それでも海外に逃れたロシア人たちの政治団体とは距離を置き、ソ連がナチス・ドイツの侵攻を受けた時には祖国救済のチャリテイー・コンサートを開いて収益を送ったためモスクワ放送でも楽曲が放送されていました。
ラフマニノフさんは1873年にバルト3国の内側のノヴゴロド州でコッサクの血を引く貴族の家庭で生まれました。4歳の時に姉たちの家庭教師がラフマニノフ少年の才能に気づきサンクトペテルブルグからピアノの教師を呼んで教育をうけさせたのですが、9歳で家が破産したため両親が離婚し、サンクトペテルブルグで母親に育てられることになったのです。間もなく才能が認められてサンクトペテルブルグ音楽院に奨学金を受けて入学することができましたが、遊びたい盛りを音楽だけで過ごすことに嫌気が差したのか12歳の時には全科目落第と言う劣等生になり、母親は甥(ラフマニノフさんの従兄)のピアニストに相談してモスクワ音楽院ピアノ科に転入させ、音楽教育者宅で寄宿しながら英才教育を受けさせました。この音楽教育者宅で生涯敬慕することになるピョートル・イリイチ・チャイコフスキーさんに会って才能を認められ、和声や対位法(どちらも合唱の技法)、さらにロシア正教の聖歌を学ぶ機会を得たのですが、音楽教師はピアノ演奏以外のことに興味を持つことさえ許さなかったため、かえって作曲への意欲が抑えられなくなり、音楽院を卒業すると関係を断って同じ学院の作曲科に編入しました。そして1892年に作曲科の卒業作品の歌劇「アレコ」を発表すると大好評を博し、次々に作品を発表するようになりましたが、1895年の交響曲第1番が評論家や他の音楽家から酷評されて自信を喪失してしまったのです。その原因として当時、流行していたムソルグスキーさんに代表される民族派の楽曲に対してラフマニノフさんはチャイコフスキーさん直系のドイツ・ロマン派であり、民族主義者にとって格好の標的になったことがあります。結局、1900年と1901年に「2台のピアノのための組曲2番」と「ピアノ協奏曲第2番」を発表したことで絶賛を浴びて、ようやく自信を取り戻したのです。
1917年にロシア革命が勃発するとスカンジナビア半島諸国への演奏旅行に出てそのまま2度と帰国することはなく音楽家としての地位を捨ててしまいました。その後、1918年秋にアメリカへ移住し、ピアニストとして活動するようになりました。周囲に「何故、作曲をしないのか」と問われると「もう何年もライ麦のささやきや白樺のざわめきを聞いていない」と答え、自身の音楽がロシアで育まれた芸術であることを表明しています。
実はラフマニノフさんのピアノ作品には決定的な欠陥があります。それは本人が2メートル超える長身で手も1オクターブの鍵盤を同時に弾くことができる大きさだったため、それで書いた譜面は普通の手しか持たないピアニスト、特に女性には演奏が困難なのです。それでもラフマニノフさんの作品は単なる楽器の演奏ではなく、ピアノが魂を込めて唄っているかのような響きがあります。
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  1. 2020/03/28(土) 12:30:00|
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