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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月2日・東海地方限定「マラソンの父」・日比野寛の命日

2020年のNHK大河ドラマ「いだてん」の主人公は初参加のストックホルム・オリンピックから第1次世界大戦後のアントワープとパリ・オリンピックに連続出場し、「富士登山駅伝」や「箱根駅伝」を創始して「日本のマラソンの父」と呼ばれている金栗四三さんが主人公でしたが、昭和25(1950)年の4月2日は東海地方では「マラソンの父」「マラソン校長」と呼ばれて、野僧が岡崎市の矢作南小学校の道徳の授業で学んだ愛知県小中学校長会監修の短編伝記集「郷土に輝く人々」シリーズでも取り上げられて、現在も教育関係者と長距離走の競技者の間では神格化されている日比野寛さんの命日です。
日比野さんは幕末の慶応2(1866)年に現在の愛知県稲沢市で生まれました。幼い頃から痩せ細り、顔色は青白く、体力も劣る虚弱体質で周囲の子供たちから「青瓢箪」と馬鹿にされるため家に逃げ帰って勉強に励んで過ごす子供だったそうです。後の愛知第1中等学校=愛知1中(現在の旭ヶ丘高校)を卒業して東京の第1高等学校に進学すると健康診断で「重度の胃腸病」「余命は保障できない」と宣告されたことで逆に一念発起し、健康法と体力練成について研究し、実践するようになりました。そこで得た結論は「胴体は直立・安定させて運動は手足で行う」「無理のない運動を継続する」と言うことでした。こうして健康を回復する東京帝国大学を卒業し、農商務省を経て文部省で勤務しました。
そんな中、母校の愛知第1中等学校から校長就任の打診を受けたのです。この頃の愛知1中は「卒業すれば地元の人脈で将来は保証される」と言う怠惰な気分が蔓延していて学業は低落し、風紀も乱れ切っていました。日比野さんはそれを承知で明治32(1899)年に校長に就任するとそれまでの知育偏重=学業専一を改め、「病める者は医者に行け。弱き者は歩け。元気な者は走れ。強壮な者は競争せよ」と口癖のように呼び掛け、学校教育と生徒指導に運動を積極的に取り入れました。そうして校長自ら率先して長距離走を始め、全校生徒が毎日2時間のマラソンに汗を流すのが愛知1中の日課になったのです。
日比野さんは持論の通りの走法を近傍各地で教育指導してマラソンの普及に大きく貢献しました。江戸時代から愛知県下では街道の整備が進み、馬や駕籠、荷車を利用していたため住民の足腰が弱く、明治になって名古屋近辺に置かれた陸軍部隊も「またも負けたか3師団」と馬鹿にされていたのです。それは自動車が1家に1台ではなく1人に1台になっている現在はさらに顕著なはずですが、意外に高校駅伝などでは活躍しています。これも愛知県にマラソンを根づかせた日比野さんの功績なのかも知れません。
日比野さんは大正5(1916)年に校長を退職しましたが、愛知1中は大正6(1917)年の全国中等学校野球選手権大会(まだ甲子園はなかった)で敗者復活戦から優勝しました。また日比野さんも50歳で大正6(1917)年4月27日から開催された東海道514キロを23区でリレーする世界初の駅伝「東海道駅伝徒歩競争」の名古屋と京都の連合チームのアンカーを務め、川崎から上野・不忍池までの24キロを完走して1位と1時間24分差の43時間6分の2位でゴールしました。ちなみに参加チームは関東と名古屋・京都の2組だけで他の地域は参加を表明してもチームを編成できなかったそうです
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  1. 2020/04/02(木) 13:31:31|
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