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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月4日・本当に護国の英雄なのか?北条時宗の命日

弘安7(1284)年の4月4日(太陰暦)は鎌倉幕府8代執権として元寇から国を護った英雄と称えられていた北条時宗さんの命日です。満年齢で32歳でした。
時宗さんを護国の英雄にしていたのは外国を一律に敵視する尊皇攘夷の狂気に毒されていた世代のはずですが、2001年の大河ドラマは「北条時宗」でしたから21世紀まで引き摺っていたようです。ただし、この大河ドラマは題名こそ「北条時宗」でも実際の主人公は和泉元彌さんの時宗さんではなく奥田瑛二さんの日蓮聖人でしたから、政権与党に加わった創価学会の公明党への忖度(そんたく)の臭いが強烈に漂っていました。
時宗さんは建長3(1251)年に5代執権・北条時頼さまの次男の嫡男として生まれました(兄は側室が産んだ子)。7歳で元服すると9歳で将軍の供奉を務める小侍所の別当に任じられて同じ職に在った叔父の薫陶を受け、将来の執権として育成されていきました。10歳で1歳年下の妻を迎えますがこの女性は時宗さんが死の直前に得度を受けた時に一緒に落髪して後に縁切寺=東慶寺の開山尼になっています。
弘長3(1963)年に時頼さまが病没すると文永元(1264)年7月に父に代わって6代執権に就いていた伯父が出家し、北条家としては傍流が7代執権になり、14歳の時宗さんは見習いとして補佐役の連署に就任しました。すると幼い頃から英才教育を受けてきた成果なのか、惧れを知らぬ若さなのか就任2年目には幕府転覆を狙っているとの疑いで皇族将軍を追放して朝廷から交代を招聘しています。そんな中、文永5(1268)年正月に元の皇帝・フビライ・ハーン(ハーンは敬称)からの国書を携えた高麗の使者が太宰府に来たのです。この国書については近年の研究者がそれぞれの解釈を述べ合っていますが、保守派は復古趣味で「臣従を命ずる国辱的な内容」と時宗さんを擁護し、逆の立場の人は「国交を求める友好的な内容」とこれを無視して元の態度を硬化させた外交的失態と批判しています。元武人である野僧としては軍船による来襲では騎馬戦術は不可能であり、元軍が本格的な侵略を狙っていたとは考えられません。どちらにしても鎌倉で宋から亡命してきた禅僧たちの指導を受けていた時宗さんが、宋を滅ぼした元に敵意と脅威を抱いていたのは間違いないでしょう。
同年3月に18歳で8代執権に就任すると信じ難い若気の至りを発揮し始め、何度も届く国書を無視しただけでなく、ついには使者を斬首して事実上の宣戦布告を行いました。その結果、文永11(1274)年に1度目の元寇を受け、これを西国武士の勇戦で阻止すると台風で軍船が全滅してことなきを得ました。ところが和平の話し合いに来日した使者(保守派の研究者によれば「降伏の勧告」)まで斬首にしたため弘安4(1281)年に2度目の元寇を受け、再度台風に助けられることになりました。
時宗さんは執権に就任すると先ず異腹兄を含む国内の親朝廷の和平派を粛清して開戦への意志統一を図り、組織を戦時態勢に改革し、1度目と2度目の間には博多湾に石塁を築くなどの対策を指揮しましたが、それは防衛大臣の職務であって外務大臣や内閣総理大臣としては殊更に事態を悪化させた失策と揶揄されても仕方ありません。
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  1. 2020/04/04(土) 12:10:18|
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