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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月24日・壇ノ浦の合戦

1185(文治1)年の明日3月24日(太陰暦)に壇ノ浦の合戦が行われました。
屋島の戦いに敗れた平家は瀬戸内海を逃げたものの、その間に源範頼が九州の平家勢力を討ったため後方も遮断され、現在の下関市の彦島を拠点としました。それに先立って現在の山口県柳井市付近で合戦を行ったことが吾妻鏡に梶原景時からの書簡として載っていますが、詳しいことは判りません。
壇ノ浦での義経の勝因は、その頃の海戦では漁師を強制参加させることが多かったため、漕ぎ手には手を出さないと言う作法があったにも関わらず最初に漕ぎ手を射(い)殺させ、平家の舟を操縦不能にさせたことがあります。要するに武道家が街で喧嘩をするのにも武道の作法から踏み出さずにいて、相手のナラズ者がルール無用に暴れるようなもので、日本人は判官贔屓で義経を悲劇のヒーローにしていますが、屋島の戦いでも那須の与一が扇を射落としたことを愛でて舟の上で舞う武士を射殺すよう称えられた与一自身に命じていますし、壇ノ浦で救われた高倉帝の妻で清盛の娘である徳子を「母が慰め者にされた」とレイプしたと伝えられていますから、武士の作法も弁えない素行不良の暴れ者だったようです。
また奥州の津軽・十三湊から安東氏の船団が増援に向かっていましたが途中で嵐に遭うなどして、間に合わなかったようです。これが史実であるならば奥州藤原氏は義経を送り出していながら平家にも加勢しようとしていた訳で、その政治的判断が謎になります。
一方、四国の祖谷渓など西日本には平家の落ち武者部落がありますが、山口県にも秋芳町の景清洞には伊藤忠清の息子・景清が隠れ住んだと言う伝説がありますが、当地もその一つと伝えられています。
安徳天皇の墓所は本来、阿弥陀寺と言う真言宗の寺院でしたが、明治初期に長州藩が引き起こした廃佛毀釈のドサクサに紛れて神道に乗っ盗られ、現在は赤間神宮になっています。
しかし、神道の祓い清め慰めるだけの宗教儀礼では、無念の恨みを抱いて散った魂魄に世の無常を悟らせ、阿弥陀如来の救済を説いて安んじさせることは出来ません。
七盛塚の亡霊が再び現われて憑りつかれた耳なし芳一がような者が出る前に、寺に返すべきでしょう。
  1. 2013/03/23(土) 09:28:36|
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