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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月8日・日本の飛行機研究の先駆者・二宮忠八の命日

昭和11(1936)年の明日4月8日は日本の飛行機研究の先駆者であり愛媛県宇和島が生んだ2人目の天才の二宮忠八さんの命日です。
1人目は幕末に村田蔵六さんが設計した蒸気船を製作した前原嘉蔵さんですが、幕末の宇和島藩は藩主・伊達宗城公が極めて開明的な英君だったため蛮社の獄で投獄された伝馬町の牢を放火・脱走した高野長英さんや藩医の二宮敬作さんの推薦で招聘した村田蔵六さんなどの当時最高峰の蘭学者たちが広くはない城下に暮らしていたので他藩に比べれば庶民にも西洋文明を違和感なく受け入れる素地が培われていたのかも知れません。
二宮さんは慶応2(1866)年に宇和島藩の豪商の3男として生まれました。ところが幕末の混乱の中で父親が事業に失敗し、にも関わらず兄2人が放蕩を止めなかったため急速に没落し、12歳の時に父親が病没すると一家離散寸前の窮地に追い込まれたのです。忠八さんは雑貨店、印刷工場の版字組み、薬局などで働いて母親を助けながらも物理学や化学の書物を読み耽って独学で知性と教養を磨いていきました。この頃、副業として凧を作って売るようになりましたが、空気力学などを研究して改良を加えたため、「忠八凧」と呼ばれて大人気を博したようです。
明治20(1887)年に徴兵されて丸亀の歩兵第12連隊第1大隊に入営して2年後、香川県満濃町での野外演習の休憩中に仰向けで昼寝をしていて上空のカラスが翼を固定して滑空しているのに気がついて固定翼機=グライダーの着想を得ました。二宮さんはこれをさらに発展させ、推進力を持つ動力式の飛行器(=二宮さんの造語)の模型の製作を始め、明治24(1901)年4月29日に初飛行に成功しました。この飛行器は全長35センチ、全幅45センチで主翼はカラスの羽を模して中央部で上反角を持ち、尾部に水平補助翼、前部に垂直補助翼があり、衛生卒として入手した聴診器のゴムで3枚のプロペラを回すことで推進力を得ていたのです。実験では3メートル滑走して10メートルの飛行、手投げ発進で35メートルの飛行を記録したそうです。
この成功を受けて二宮さんは有人飛行を目指して今度は玉虫を模した大型の飛行器を製作しますが、当時の日本の地方にはエンジンと言う機械が普及していなかったため推進力が見つからず、全幅2メートルで複葉牟尾翼の大型模型=実機の縮小版に留まらざるを得ませんでした。
日清戦争に出陣すると二宮さんは観測気球が活躍しているのを見て飛行器の有用性を確信し、旅団長と長岡外史参謀に意見具申しましたが、アメリカやヨーロッパではグランダーによる飛行実験が盛んに行われていても日本ではそのような夢を負う者はおらず相手にされなかったのです。それで二宮さんは資金調達して自力で開発することを決意し、兵役満了後は製薬会社に勤め、営業実績を上げて支店長にまで昇進し、ようやく開発資金を確保して本格的に開発に乗り出した頃、ライト兄弟の実験成功を知ったのです(このニュースを知った長岡外史少将は二宮さんを訪ねて謝罪した)。その後は飛行器=飛行機を忘れて製薬会社と地元に設立した製塩会社の経営に励んで一生を終えました。
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  1. 2020/04/08(水) 12:41:56|
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