FC2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月18日・彫塑像の猫シリーズの作者・朝倉文夫の命日

昭和39(1964)年の明日4月18日は猫好きには堪らない傑作彫塑像・猫シリーズを製作した彫塑家の朝倉文夫さんの命日です。81歳でした。
野僧は福岡県の春日基地で勤務していた頃、東京の国立近代美術館で見た「墓守」の作者の朝倉さんの出身地に「記念館が開館した」と言う新聞記事を読んで愚息ともう1人で出かけたことがありますが、この手の施設の常で建物が先にできても中身にまで予算が回らずに数点展示されていた愛らしくリアルな猫シリーズが印象に残っているだけで、後は複製品なのが見え見えの新品で傑作の迫力は感じられませんでした。
朝倉さんは明治16(1883)年に大分県豊後大野市(当時は大野郡上井田村)の村長の11人兄弟姉妹の5番目の3男として生まれ、10歳の時に母の実家の朝倉家の養子になって改姓しました。ところが尋常中学校竹田分校(作曲家・滝廉太郎さんの後輩に当たる)で3度落第したため世間体を気にした母の命令で退学し、彫刻家として名を為していた長兄の助手として東京に行ったのです。朝倉さん本人は俳句に強い関心を抱いていて「折角、東京へ出るなら正岡子規さんに入門したい」と願っていたのですが、東京に着いたのは正岡さんの通夜の日でした。それでも兄の助手として塑像造りに取り組むうちに芸術家としての血が騒ぎ始め、やがて自分も彫刻家を目指すようになったのです。そうして猛勉強の末、明治36(1903)年に東京美術学校の彫刻専科に入学を果たすと寸暇を惜しんで塑像造りに励みますが、モデルを雇う資金がないため動物園に通って動物のスケッチを重ね、そのおかげで動物の塑像を求めていた貿易商に大量の作品を収めることができたのです。明治40(1907)年に専科を卒業して研究科に進むと文部省主催の第2回文展で青年の裸体像「闇」が最高賞の2等になり、2年連続で2等になれば公費での欧州留学が与えられるため期待を込めて「山から来た男」を出品しましたが惜しくも3等でした。しかし、その後も第8回まで連続上位入賞を果たしたため第10回からは34歳の若さで審査員になりました。その後は大正10(1921)年に東京美術学校の教授に就任し、昭和23(1948)年には第6回文化勲章を受章しています。
朝倉さんの早稲田大学構内にある大隈重信像と並ぶ代表作と言われる「墓守」は明治43(1910)年に発表され、現在は国立近代美術館に収蔵されていますが、野僧はこの像を見た時、題名の意味が判らず前に立ったまましばらく悩みました。実際はモデルが学生時代から顔見知りだった谷中の天王寺の墓守の老人だからなのですが、その説明がなければ哲学的な意味があるのかと勘違いしてしまいます。ちなみに朝倉さんの墓所は天王寺にあります。また大の猫好きで多い時には19匹も飼っていて、野僧が憶えているだけでも「産後の猫」「たま(好日)」「のび」「吊された猫」「狙う」「背伸びする」「よく獲えたり」「見つめる」「愛猫病めり」「仔猫の群れ」などの猫を飼っている者には日常の場面そのものの作品があり、中でも第5回文展出品作である「産後の猫」は愛猫・音子が1匹娘の若緒を産んだ時の姿そのもので特に好きです。一方、同じ形でも死期を悟った「愛猫病めり」の衰えた姿を見る前に野僧が逝きたいと願っています。
朝倉文夫・産後の猫産後の猫
スポンサーサイト



  1. 2020/04/17(金) 12:05:28|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<振り向けばイエスタディ1889 | ホーム | 振り向けばイエスタディ1888>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/6083-a8e58a52
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)