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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月20日・プロとアマ対立の発端・柳川事件が発生した。

昭和36(1961)年の4月20日に長年にわたり日本のスポーツ界の発展を阻害してきたプロとアマの対立を確定的にした柳川事件が発生しました。
日本のプロ野球は昭和11(1936)年に創立しましたが、野球を単なる遊戯と見ている多くの日本人はプロ野球も娯楽の1つと蔑視していて首都圏では東京6大学野球の方が圧倒的な人気があり、全国的にも仕事の後に練習に励むと思っていた社会人野球(実際は仕事よりも野球を優先していた)や学校教育の高校野球が支持されていました。そんな中、プロ野球と社会人野球はそのスカウトや契約と入団に関する協定を毎年ごとに締結していたのですが、基本的には3月1日から秋の産業対抗大会が終了する10月31日までは接触しないことで合意していました。
ところが昭和35(1960)年の協定で社会人野球側が「プロ野球を退団した選手は資格審査に合格後の産業対抗大会が終了するまで社会人のチームに登録できない」「人数は3名までとする」「公式戦を経験していない2軍選手も対象とする」と一方的に通告してきたため退団させた選手の身分や生活を憂慮したプロ野球側が「期限を夏の都市対抗大会まで」とするように要求しましたが、社会人側が拒否したことで協定が破棄されたのです。
そうして無協定状態になっていたこの日に中日ドラゴンズが中京商業高校の内野手として夏の甲子園を制覇し、中京大学を卒業して日本生命に就職していた柳川福三選手と契約し、入団を発表しました。これを受けて社会人野球側は理事会を開催し、プロ野球との関係断絶と退団者の受け入れ拒否を決議して事実上の敵対関係に陥りました。さらに大分県の甲子園出場校の投手が1回戦で敗退した帰路のフェリーの船上で取材を受けて「中日への入団」を明言したことで高校野球連盟との「選手との接触は野球部を退部して以降」と言う申し合わせを無視していたことが発覚したため大学野球と高校野球を傘下に置く学生野球協会も社会人野球と同調して、それまではキャンプや地方での試合、自主トレなどの合間に行われていたプロ野球関係者による生徒や学生への指導を全面禁止しました。
これ以降、プロ野球選手は卒業生であっても母校の練習への参加は言うまでもなくOB会に出席して旧交を温めることもできなくなりました。一方、学生や社会人の選手たちも野球だけに専念しながら高額の報酬を手にして華やかな脚光を浴びても現役期間が短いプロ野球と社員として片手間の部活動に甘んじても引退後の指導者・社員としての身分が保障されている社会人野球を二者択一の天秤に掛ける異常事態が発生し、日本国憲法が定める職業選択の自由は完全に無視されていたのです。
このプロ野球とアマチュア野球の対立は他の競技団体へも少なからぬ影響を与えていて、例えば柔道やレスリングの重量級がオリンピックで勝てなくなった頃、スポーツ・マスコミ関係者から相撲界やプロレス界の経験者を選手として出場させることが提案されましたが、理事会に諮る前に受け付けられませんでした。結局、両者の対立はアマチュア・スポーツの最高権威だったオリンピックがプロ選手の参加を解禁したことで時代の変遷を直視せざるを得なくなり、1990年代になってようやく緩和、解消されたのです。
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  1. 2020/04/20(月) 13:44:51|
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