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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月30日・「竹槍事件」の当事者・新名丈夫記者の命日

1981年の明日4月30日は毎日新聞的には大本営の発表の虚偽を暴露し、それに怒った東條英機首相の弾圧を受けたことになっている新名丈夫(しんみょうたけお)記者の命日です。ちなみに昭和45(1970)年公開の東宝映画「激動の昭和史・軍閥」では新井五郎の役名で加山雄三さんが演じていました。
新名記者は明治39(1906)年に香川県高松市で生まれ、慶応義塾大学に進学すると弁論部で活躍したそうです。卒業後は毎日新聞に入り、海軍の従軍記者として活躍したため第2次世界大戦への参戦後は海軍従軍記者クラブ=黒潮会の主任記者になりました。
そうして実際に戦地で日本軍が劣勢に陥っていく様を見ている新名記者は実態とかけ離れた大本営発表の通りの虚偽の記事を書かざるを得ないことにジャーナリストとして耐えられなくなり、昭和19(1944)年2月24日の朝刊1面に「勝利か滅亡か、戦局は茲(ここ)まできた」「竹槍では間に合わぬ。飛行機だ。海洋飛行機だ」と言う記事を掲載したのです。すると元来が偏狭で反対者を容認しない性格の上、戦局の悪化で苛立っていた東條首相は新名記者を抹殺することを命じ、その意を受けた陸軍は常套手段であった懲罰的徴兵を発令し、本籍地に近い丸亀の歩兵第12連隊に2等兵として入営させました。しかし、新名記者は大正時代に受けた徴兵検査では弱視のため不合格になっており、当時としては中年だった40歳を目前にした「異例の徴兵は明らかに懲罰である」と海軍省の報道担当者が新聞他社も巻き込んで陸軍省を批判したため、その帳尻合わせのために同様に大正時代に兵役年限を迎えていた中高年者を250名徴兵したのです。おまけに新名2等兵本人は日支事変当時には陸軍の従軍記者だった経歴と海軍の後ろ盾で新兵でありながら特別待遇を受け、3ヶ月で召集解除になりましたが、巻き込まれた形の250名は昭和19(1944)年7月22日にサイパン陥落により東條内閣が退陣した後も兵役を継続させられ、12連隊が硫黄島に派遣されたため世界戦史に残る激戦の末に全滅したとされています。実は陸軍としては海軍の圧力に屈した形の新名記者の兵役解除に対する批判が部内で起こっており再徴兵を画策したのですが、先に海軍が国民徴用令に基づく軍属としたことで断念させたとも言われています。
その一方で新名記者の主張は東條大将の政権下で陸軍主導の戦争に危機感を募らせていた海軍の代弁であり、戦時下で発生した陸海軍の対立の一局面とする見方もあります。
それにしても東條大将はナチス・ドイツの全権を掌握しているアドルフ・ヒトラー総統に倣って内閣総理大臣と陸軍大臣、参謀総長、教育総監を兼務しましたが、政治権力の全てを手中に収めた訳ではなく、さらに陸軍と言う巨大組織は明治以降の正式な法規に基づいて設置され、敗戦直前の狂気に陥るまでは比較的常識を維持していたはずなので戦時下とは言え東條大将の一存で懲罰的徴兵が行われ、その帳尻合わせのために250名もの異例な中高年者が召集されたまま戦地に送られ、全員が死亡したとは信じられません。
この一件は映画や敗戦後の新名記者の著書では東條大将の悪事の典型例とされていますが、毎日新聞も朝日新聞ほどではないにしても近・現代史の歪曲・捏造の常習犯です。
「軍閥」新井五郎記者「軍閥」の新井五郎記者
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  1. 2020/04/29(水) 12:54:20|
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