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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第89回月刊「宗教」講座・短いお経シリーズの第5弾「阿弥陀如来根本陀羅尼」

日本の佛教徒の3分の1は浄土宗と浄土真宗なので単純に言えば佛檀がある家の3軒に1軒の内佛(各家の佛檀に祀っている本尊)は阿弥陀如来と言うことになります。特に浄土真宗、中でも西東本願寺の本願寺派と大谷派ではユダヤ教やキリスト教、イスラム教が唯一絶対のカミを信仰しているように阿弥陀如来を唯一絶対の佛としているため釋迦如来さえ認めておらず、広島を中心とする固門徒(かたもんと)を除けば托鉢は僧侶の修行として拒絶しないものの(むしろ軟弱な浄土真宗の僧侶よりも敬意を抱いてくれることが多い)。釋尊や観世音菩薩、地蔵菩薩の経を詠んでも飲み屋で有線放送の歌を訊いているような風情で特に関心を示しません。また禅宗の托鉢僧は「観世音菩薩は阿弥陀如来の脇侍ではないか」と考えてしまいますが、浄土真宗は浄土三部経に出てくる阿弥陀三尊の両脇侍である観世音菩薩、大勢至菩薩さえも信仰の対象として認めていません。そんな浄土真宗寺院の門徒=檀家宅の玄関先でこの経文を唱えると出てきた家の人が「ウチは門徒だ」と遠回しに拒絶しても「これは阿弥陀如来の経文です」と答えると関心を引ける上、内佛に回向することができるのです。
「阿弥陀如来根本陀羅尼」=「曩謨囉怛曩。怛囉夜耶。娜莫阿哩野。咡哆婆耶。怛陀擘■(口辺+羅)夜囉曷帝。三貘三没駄耶。怛儞也他唵阿蜜㗚帝。阿蜜㗚妬納婆吠。河蜜㗚多。三婆吠阿蜜㗚多。擘階阿蜜㗚多。悉帝阿蜜㗚多帝際阿蜜㗚多尾訖磷帝阿蜜㗚多尾訖磷多。誐蜜寧阿蜜㗚多誐誐曩吉底迦■(口辺+隷)阿蜜㗚多。嫩弩枇娑嚩囉佗裟駄寧。薩嚩羯磨。訖礼捨・乞灑孕迦■(口辺+隷)娑嚩賀」陀羅尼は音に威圧感がある難しい漢字を当てるためワープロやパソコン泣かせなのですが、本来は口で唱える呪文なので振り仮名も紹介します。
真言宗「あみだにょらいこんぽんだらに」=「なうぼう。あらたんなう。たらやーやー。なうまく。ありやー。みたーばーやー。たたぎゃたやー。あらかていー。さんみゃくさん。ぼだやー。たにゃた。おん。あみりてー。あみりとう。どばむべいー。あみりた。さんばむべい。あみりた。ぎゃらべー。あみりた。しっでい。あみりた。ていーぜいー。あみりた。びきらんでいー。ぎゃみねいー。あみりた。ぎゃぎゃなう。きちきゃれいー。あみりた。どんどび。そばれいー。さらば。あらた。さだねいー、
さらば。きやらま。きれいしゃ。きしゃよう。ぎやれいそーわーかー」
浄土宗「あみだにょらいこんぽんだらに」=「のうぼーあらたんのう。たらやや。なうまくありや。みたばや。たたぎゃたやあらかてい。さんみゃくさんぼだや。たにやたおんあみりてい。あみりととばべい。あみりた。さんばべいあみりた。ぎゃらべいあみりた。しっていあみりたていぜいあみりたびぎゃらんていあみりたびぎゃらんた。ぎゃみねい。あみりたぎゃぎゃのうきちきゃれいあみりた。どんどびそば。れいさらばあらたさだねい。さらばぎゃらま。きれいしゃ。きしゃようしゃれい。そわか」
この経文を用いているのは主に真言宗と浄土宗ですが、詠みよりも文の切れ目=息継ぎが微妙に異なります。
文字数は135文字なので舎利礼文の72文字の倍近くありますが、陀羅尼は呪文なので普通の経文よりもテンポが良く、音で憶えるのは意外に簡単で、自然に口から流れ出るように唱えることができます。
「阿弥陀如来根本陀羅尼(訓読)」=「三宝に礼したてまつる。神聖なる無量光如来・応供・正等覚尊に礼したてまつる。すなわち、ああ、甘露尊よ。甘露所生尊よ。甘露能生尊よ。甘露胎蔵尊よ。甘露成就尊よ。甘露威光尊よ。甘露遊戯尊よ。甘露遊行尊よ。甘露広説尊よ。甘露鼓音尊よ。一切義成就尊よ。一切悪業因縁除滅尊よ。心祈成就せんことを」訓読は漢字を反映していないので和訳と言った方が適切でしょう。
この訓読を読むと「阿弥陀如来根本陀羅尼」が浄土三部経の「佛説無量寿経(大経)」「佛説観無量寿経(観経)」「佛説阿弥陀経(小経)」とは趣が違うことが判ります。
「佛説無量寿経」は上巻で釋尊が弟子たちに「天竺のある国王が世自在王如来の下で法蔵菩薩となって例外のない衆生済度を誓願して修行に入り、5劫もの長期間の思惟の末、48の誓願を成就させたこと」を説いています。続く下巻では「来世は阿弥陀如来の極楽浄土に生まれたいと願う者は阿弥陀如来の名号を聞き、信じ、法悦して心から念ずれば往生が定まる」と説いています。
「観無量寿経」は前半で天竺の王が悪友にそそのかされて父王を廃位させて城の塔に幽閉し、食事を与えず餓死させようとしたため、王妃が身体に蜜を塗り、髪に果物を隠して訪れ、それを舐め食べさせていたのですが、父王が死なないことを不審に思った王が事実を知り、母である王妃を害そうとしたことを嘆き悲しんで釋尊の教えと救いを乞うた物語を序章としています(この物語は映画「釈迦」や手塚治虫先生の「ブッタ」デモ描かれています)。
後半は「無量寿経」の下巻でも説かれている衆生の行状による上品上生から下品下生まで9段階と各区分別の無量寿佛=阿弥陀佛と観世音菩薩・大勢至菩薩による救済の形が具体的に説かれています。
「佛説阿弥陀経」はあまり趣味が良いとは思えないほど金銀や宝石で派手派手しく飾り立てた極楽浄土を説明した上で、「来世にここに生まれたいのなら阿弥陀如来に願いなさい」と説いています。
これに対して「阿弥陀如来根本陀羅尼」の阿弥陀如来は極楽浄土にいて現世の衆生を見守り、救いの手を差し伸べているのではなく、大宇宙に満ちる無現の存在であり、阿弥陀の本来の意味である「光」として降り注ぎ、照らしているのです。その意味では経文としては密教の陀羅尼であっても浄土教の根本佛である阿弥陀如来を密教の根本佛である大日如来と同一の存在として位置づけているようです。ちなみに「阿弥陀如来根本陀羅尼」は真言宗と浄土宗では用いられていても浄土真宗、特に本願寺派・大谷派では認めていません(高田派や越前四派では門徒が勤めているのを黙認している)この理由について本願寺の両派の僧侶に確認しても明確に回答はしませんが、過去に「浄土三部経と正信念佛偈だけを経典とする」と指導したため、その後、親鸞聖人が愛謡経していた経典について問い合わせを受けた時に内容の可否ではなく、「浄土三部経と正信念佛偈だけ」と指導した経緯だけで否定してきたので、この経文もそれに該当したのかも知れないと臭わせました。本願寺の両派は門主の先祖である蓮如妾人(門主の妾の子)の低次元な通信布教の書簡を経典に準ずる扱いにして葬儀や法要などでも朗読していますが、同じような短文であればこちらの方がはるかに功徳は大きいはずです。「南無阿弥陀佛」
89・阿弥陀如来坐像小庵・阿弥陀如来坐像
89・東大寺・五劫思惟像東大寺・五劫思惟像(五劫の思惟で螺髪が伸びている)
曹洞宗の大本山・永平寺の本尊は三尊佛坐像ですが、通常、三尊佛坐像は過去佛が阿弥陀如来、現在佛は釋迦如来、未来佛は弥勒如来なのに、かつて永平寺では過去佛が阿弥陀定印(小庵・阿弥陀如来坐像を参照)を結んでいるにも関わらず迦葉如来と称していました。また同じく曹洞宗の大本山・總持寺は貫主の「南無阿弥陀佛」と唱える口癖を問題視して止めさせたこともありましたから、巨大教団・浄土真宗への対抗意識はかなり根深いようです。阿弥陀定印は念佛者を指で弾くように極楽へ往生させることを表しており、これを指摘されたため永平寺では過去佛を阿弥陀如来に戻しています。
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  1. 2020/05/01(金) 13:08:46|
  2. 月刊「宗教」講座
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