FC2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月7日・大学を革命闘争の拠点にした愛知大学事件が発生した。

1952年の5月7日に大学構内が警察の監視が及ばない自治に名を借りた不法地帯であることを裁判所が公式に認め、60年安保から続く70年代の学園闘争=共産革命運動の拠点と化した原因を作った愛知大学事件が発生しました。
愛知大学は戦前の日本の右翼が標榜していた大アジア主義を中国でも普及するために上海に設立された東亜同文書院を非公式な前身としますが、敗戦後に大学首脳が中国共産党に拘束されたため毛沢東主義の洗脳を受け、昭和21(1946)年に愛知県豊橋市の陸軍予備士官学校の跡地に設立されてからは中国の古代・近・現代史や漢文・中国語と同時に毛沢東の革命思想を教える左翼色で塗り固められた学風に変質しました。
事件は犯罪捜査の目的で現在は豊橋キャンパスと呼ばれている愛知大学の北門から無断で入門した豊橋警察署員が発見した学生に取り囲まれて暴行を受け、縄で縛ったため救出に来た別の警察官が実行者の学生と講師の計10名を逮捕したものです。これに対して大学当局は学長以下の全学教授会と教職員組合、学生自治会が一致して豊橋警察署に抗議文を送付しましたが、名古屋地方検察庁が学生9名と指揮した講師1名を暴力行為等処罰に関する法律違反と不当逮捕、公務執行妨害の罪で起訴すると逮捕された学生の父親で共産党中国から帰国した国会議員を歓迎する名目で集まった学生や労組過激派が名古屋市内で暴動を起こした大須事件も担当していた極左弁護士を主任弁護士に据え、中日新聞を始めとする地元マスコミの全面的な支援を得た上で「警察官の立ち入りは理由の如何を問わず大学自治に対する侵害」とする法廷闘争を開始したのです。すると同じ昭和27(1952)年2月20日に東京大学の学生劇団ポポロの公演に聴衆として潜入していた警察官が同様の迫害を受けた「東大ポポロ事件」で昭和29(1954)年5月11日の東京地方裁判所の1審と昭和31(1956)5月8日の東京高等裁判所の2審が無罪判決を下したことが判例になり、昭和36(1961)年8月14日に名古屋地方裁判所は2名を無罪、7名を刑免除の判決を下したのです(被告人1名は死亡していた)。ところが昭和38(1963)年5月22日に最高裁判所は東大ポポロ事件を「大学の学問の自由と自治は学術の中心として研究と発表を進めるために運営を大学当局の裁量に任せることであって、学生の課外活動である劇団の公演にまでは及ばない」と2審判決を破棄して差し戻したのです。しかし、名古屋高等裁判所は昭和45(1970)年8月25日の2審で警察官が大学に立ち入る要件として「緊急でやむを得ない場合で裁判所の捜査令状の交付を受け、事前に大学の了解・許諾を受けていること」と言う基準を示したため、これがすでに激化していた学園闘争に対する警察の捜査を阻止するバリケードになりました。その結果、市街地で破壊活動を繰り返した学生の活動家たちは「大学に逃げ込めば逮捕されない」と言う待避所を獲得し、全国各地の大学を拠点にした騒乱事件が続発することになったのです。
最終的には過激な学生運動が国民の支持を喪失していた昭和48(1973)年4月26日に最高裁判所が「東大ポポロ事件」と同様の判断を下しましたが、愛知大学では80年代に入っても教授は「ウチの大学ではまだ学園闘争が続いている」と嘆いていました。
スポンサーサイト



  1. 2020/05/07(木) 13:41:02|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<振り向けばイエスタディ1909 | ホーム | 振り向けばイエスタディ1908>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/6124-6b02e2c1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)