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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1911

梢には初めての本格的な冬だ。秋にオランダに来てからは先行的に冬物を買っているが枚数を揃えるには無理があり、クリーニングに出す度に新しく買った服の披露が私の楽しみになっている。そんなある日、モレソウダ首席検察官が告訴状を提出したため私も出廷する可能性が発生して法服を渡された。着任した時、事務室が呼んだ担当者が寸法を測っていたからイージー・オーダーのようだ。日本でも戦前までは裁判所構成法で検察官と弁護人にも法服と烏帽子型の帽子の着用が義務づけられていたが、敗戦後からは裁判官と速記者である書記官だけになった。ただ日本の法服は裁判官がシルク、書記官はウールと差をつけていても色は他の色に染まらない公正中立を意味する黒一色だが、国際刑事裁判所の法服は涎(よだれ)かけのようなスカーフを垂らした上に着る膝下までの長い上衣の幅広の襟が鮮やかな紺青色のストライプになっていてお洒落ではあるが好みではない。
「法服ならぬ法衣として着るしかないな。涎かけの上に威儀細を掛けていこう」寝室の梢の鏡台の前で迷彩服の上に法服を羽織りながら私は最も苦手なファッションを思案した。法服はカソリックの神父の服装を踏襲しているため袖が広く、丈も長く坊主の法衣のような作りになっている。これで国際司法裁判所のように黒一色ならば襟巻をした親鸞のような雰囲気にできる。しかし、どうしても法廷用の特別な服装をさせられるのなら江戸時代の町奉行のように裃(かみしも)にしたいものだ。当然、頭には丁髷の鬘(ちょんまげのかつら)をかぶる。そう言えばイギリスや旧植民地の裁判官は中世貴族のような鬘を被るそうなのでガンビア出身のモレソウダ首席検察官も経験しているはずだ。これは意外にウケるかも知れない。
「貴方、茶山さんから荷物が届いたわ」私が鏡の前で悩んでいると梢がドアを開けて入ってきた。梢は目の前に見たこともない黒装束の男が立っているのに驚いて「キャッ」と短い悲鳴を上げて段ボール箱を床に落とした。割れた音はしなかったがガラスの器が当たる音がした。
「国際刑事裁判所では法廷に出るのに決まった服装があるんだよ」「ふーん、スターウォーズのダースベーダーかと思っちゃった」梢は私と一緒に「スターウォーズ」シリーズ3作目の「ジェダイの復讐」を映画館で見てからレンタルビデオ屋で第1作、第2作を借りてアパートで見たのだが、私が「銀河帝国軍の軍服を自衛隊の制服に採用するべきだ」と主張したためファッションとしても興味を持ったようだ。
「そんなにユッタリとした服なのにオーダーなんだね。着丈だけじゃなくて袖の長さも丁度だわ」確かに日本人としても足と手が短い方の私でも袖は手首までになっている。こうなるとズボンも合わせなければならないが迷彩服のズボンを脱ぐには半長靴からになる。梢は私が脱いだ上衣を受け取ると「重いから肩がこりそう」と呟いた。
「茶山さんに漬け物のお礼状を書いたついでに苦汁(にがり)を頼んじゃったの」「代金は送ったのか」「葉書だったから今度、何か名産品を送るわ」意外に厚かましい梢の知られざる一面を知って私は呆気に取られたが、苦汁が豆腐の食品添加物であることを思い出して梢の本意・真情を噛み締めた。当然、抱き締めたくなったが本人は段ボールの中を覗き込んでいる。
「これは何をするのかしら」大きくはない段ボール箱に苦汁の瓶が3本入っているのだが、その下には藁(わら)を編んだ袋が敷いてあった。
「妙に凝った緩衝材だな」「待って、手紙が入ってるわ」「それは規則違反だぞ」私の指摘は無視して梢は茶封筒に入った手紙を取り出して広げた。海外からの郵便物は税関や検疫が確認しているはずだから小包に書簡を同封するのは黙認される程度の規制なのだろう。
「ふーん、藁には納豆菌が棲んでいるから茹でた大豆を入れて40度で一晩おけば糸を引いた納豆になるのかァ。作れるのは豆腐だけじゃあなくなったわ」私としては精進料理の献立が増えて大喜びだが、前後の脈絡からこれは梢が頼んだのではなく茶山元3佐夫妻の発案だと推理してご厚情に感激を新たにした。
「しかし、日本でなら炬燵に入れておけば一晩40度を維持できるけど、この家じゃあエアコンの前でも40度にはならないだろう」「ヨーグルト・メーカーを買ってくれば大丈夫よ」余計なことに気づいてしまった私の疑問を梢は一言で解消してくれた。
「少量ならポットに40度のお湯を入れてビニールに入れた納豆を浸しておく手もあるわね」ここまでの遣り取りで私は梢の主婦としての知恵は抜群であり、この女性と結婚できなかったことは人生の多大な損失であったことを痛感した。
「マーガリンも豆乳から作るんじゃあなかったか」「マーガリンは本場物が買えるから必要ないでしょ。先ずは豆腐だね。こっちは大豆を水に漬けるんだよ」どうやら梢はオランダに来ることを決意した時に作り方を研究していたようだ。そんなところは昔と全く変わっていない。
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  1. 2020/05/10(日) 13:10:41|
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