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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月12日・キャンプ・ハンセンの由来になったハンセン2等兵が戦死した。

1945年の明日5月12日に合衆国名誉勲章の受章者として在沖縄アメリカ海兵隊の中核駐屯地であるキャンプ・ハンセンの名称の由来になったデール・マーリン・ハンセン2等兵が戦死しました。入隊して1年と1日の22歳でした。
ハンセン2等兵は1922年12月13日に中西部のネブラスカ州ウィズナーで生まれ、1944年5月11日にカリフォルニア州サンディエゴの海兵教育隊に入隊して3カ月間の新入隊員教育、続いて歩兵としての教育を受けた後、2週間のブローニング軽機関銃(通称・BAR)の取り扱いに関する特別訓練を受けています。
1944年11月12日に南太平洋のラッセル諸島バブブの第1海兵連隊第2大隊に配属されると、そこで対戦車自噴弾・バズーガ砲の訓練を受けていますが、日本軍の戦車の装甲はバズーガ砲の射程の近距離であればキャリバー50重機関銃の12.7ミリ弾でも貫通するので使う機会があったのかは判りません。さらに1945年2月19日に硫黄島で戦闘が始まった頃にアマリカ軍が占領して離島での戦闘の訓練場にしていたガダルカナル島に移動し、そこで3月26日に硫黄島での組織戦闘が終わった頃まで過ごした後、バブブ島に数日間戻り、1945年4月1日のイースターの日曜日に沖縄本島に上陸しました。
沖縄本島での地上戦は硫黄島の栗林忠道中将と同じくアメリカ留学の経験を有する第32軍の作戦参謀・矢原博道大佐の合理的で綿密な持久作戦によってこれまでの日本軍守備隊のように万歳突撃で自滅することを期待していたアメリカ軍を散々に苦しめましたが、皇道派の神憑った精神主義者の長勇参謀長の面子だけにこだわった無謀な総攻撃によって貴重な戦力を失い、首里地区の司令部に接近させてしまったのです。地上軍のバックナー司令官は陸軍を太平洋側、海兵隊を東シナ海側から南進させましたが、陸軍は太平洋側から首里に至る嘉数高地の日本軍の頑強な抵抗によって大損害を出しており、海兵隊には早急に那覇市を制圧して西から首里に向かって進撃するように命令していました。
ハンセン2等兵が合衆国名誉勲章を受けた戦功は1945年5月7日のヒル60での戦闘で、頑強に抵抗して多大な損害を与えている日本軍陣地に自らの危険を顧みることなく単独で肉迫し、手榴弾を投げ込み、機関銃を射ち込んで第1海兵師団第1海兵連隊第2大隊E中隊を救ったことでした。まさしく合衆国名誉勲章の授与基準「戦闘においてその義務を超えた勇敢な行為をし、若しくは自己犠牲を示したアメリカ軍人」の通りの戦功だったのです。しかし、ハンセン2等兵は続くワナ岳の戦闘で日本軍の狙撃兵によって射殺されました。合衆国名誉勲章は1946年5月30日のメモリアルデーに西部地区の担当者から両親に贈られ、遺骸は当初、沖縄の海兵隊墓地に埋葬されていましたが、1948年に生まれ故郷のネブラスカ州ウィズナーに改葬されて合衆国に戻っています。
日本軍でも日清戦争の成歓の戦いで敵弾を受けながらもラッパを口から離さなかった木口小平2等卒、黄海海戦で「勇敢なる水兵」と謳われた三浦虎次郎3等水兵、第1次上海作戦の「爆弾三勇士」の江下武二1等兵、北川丞(ますみ)1等兵、作江伊之助1等兵などの英雄とされた兵士がいますが、自衛隊では駐屯地や艦艇に個人名は使えません(砕氷艦「しらせ」は南極にある海岸の地名)。
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  1. 2020/05/11(月) 12:19:05|
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