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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月12日・江戸の写真家・鵜飼玉川の命日

明治20(1887)年の5月12日は江戸で活躍し、幕末の偉才・横井小楠さんや川路聖謨(としあきら)さん、鳥居耀三▲(「さん」欠く)の策謀による10年に及ぶ幽閉生活を終えた晩年の高島秋帆さんの肖像写真を撮影した鵜飼玉川さんの命日です。
最近は長崎で写真店を開業して高杉晋作よん(「さん」をつけるに値しない)や桂小五郎よんなどの毛利藩のテロリストや土佐の稀代の悪徳武器商人・坂本竜馬よんと薩長の国家権力独占の犠牲になった逸材・後藤象二郎さんなどの写真を撮った上野彦馬さんや横浜で外国人相手の土産として芸者や侍、庶民の風俗写真を売りさばいて海外で商品(作品とは言い難い)が発見されることが多い下岡蓮杖さんの方が有名になっていますが、2人が写真店を始めたのは文久2(1862)年なので万延年間には横浜で開業し、文久元(1861)年に横井さんの写真を撮影し、幕末の江戸の風俗を紹介した本にも名前が出てくる鵜飼さんこそ日本の写真家の草分けなのです。
鵜飼さんは文化7(1807)年に現在の茨城県石岡市に在った常陸府中藩の江戸藩邸で藩士の4男として生まれました。当時は家格を上げるため武家の末子を養子や婿に迎える商家が多く、一度は養子に出されましたが間もなく母の実家の鵜飼家に戻りました。画家の谷文晁さん、渡辺崋山さん、椿椿山さんや書家の市川米庵さんと交流を持ちながら幕末を迎えると安政5(1858)年に開港された横浜で雑貨店のかたわら日本最初の写真スタジオを開いていたアメリカ人のオリン・フリーマンさんに弟子入りして撮影と現像の技術を学び、独立するに当たっては写真店を廃業して雑貨商に専念することにしていたフリーマンさんからスタジオと器材一式を買い取ったのです。それにしても横浜が開港された時点で鵜飼さんは51歳になっていたはずなので当時の平均寿命から考えれば極めて壮健であり、視力や頭脳の衰えもなかったようです。その後、江戸は両国の薬研掘に新たな写真店を開業して前述の活躍をしたのですが、被写体になった人物の知名度と人気で歴史的評価が上下していたことが判ります。
この時代の写真は銀板式から湿板式に移行する過渡期でしたが、銀板式は撮影するのに30分間を要し、被写体になる人物はその間、表情や姿勢を換えることができず大変な負担が掛かりましたが、湿式ではそれが15秒になり、急速な普及をもたらしました。その一方で写真の本人そのものの迫真性に多くの日本人は「魂を吸い取られる」と言う迷信じみた恐怖心を抱き、こちらは中々解消しませんでしたが、西洋文明の先進性を知る知識人や若い侍たちが度胸試しで撮影したおかげで我々は幕末の著名人たちの実際の顔を見ることができるのです(徳川家茂公、西郷南洲さんと村田蔵六さんの写真が見たい)。
明治に入ると鵜飼さんは古美術品に興味を持ち、明治5(1873)年に文部省が着手した奈良・東大寺の正倉院の学術調査に参加して、それ以降は(今で言う)鑑定士として生活したようです。晩年になって自分が撮影した写真が退色して識別不能なほど不鮮明になったことに絶望して谷中の墓地に埋めて「写真塚」を建立しましたが、昭和31(1956)年と2009年に台東区が発掘調査したものの成果は公表されていません。
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  1. 2020/05/12(火) 12:11:53|
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