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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月15日・毛利敬親が山口新屋敷へ移った。

慶応2(1866年)年の明日5月15日に実際は11代藩主=65代当主の側室の子=妾腹でありながら12代藩主=66代当主=異母兄の娘婿になったことで第13代藩主=第67代当主になれた毛利敬親さんが萩城から山口新屋敷に移りました。
毛利藩は周防と長門=現在の山口県、島津藩は薩摩と大隅=現在の鹿児島県の2カ国を領していながら藩主の居城があった律令国名から長州藩、薩摩藩(=薩長連合)と呼ばれてきましたが、山口は長門国なので毛利藩に関してはこの時点で史実誤認になります。
毛利氏は本来、鎌倉時代初期に下級公家から源頼朝公の側近になった大江広元さんの4男で越前の国人領主だった毛利経光さんが4男の時親さんに与えた中国山地の吉田庄郡山の国人領主でした。この「元公家」であることを毛利家は誇示して「朝臣」を名乗り、それが幕末に毛利藩に現れた吉田寅次郎くんの尊皇攘夷の狂気を炎上させ、その結果成立した大日本帝国が77年でこの国を滅ぼしたのですから亡国の家系なのは間違いありません。
そうして安芸国の中国山地の国人領主として鎌倉・室町時代を過ごしましたが、戦国乱世になり守護大名である大内氏が中国地方全域から九州北部まで手中に収めるとこれに従い、出雲の尼子氏が反旗を翻して勢力を拡張するとこちらに寝返るなど武士の風上に置けぬ卑怯な綱渡りで領地を維持していました。ところが文弱に堕した大内氏が陶氏に背かれて滅亡すると面従腹背で巨大な領土の乗っ取りを画策し、結局は陶氏だけでなく尼子氏も滅ぼして大内氏の領国をそのまま手中に収めたのです。そうして中国地方8カ国を引き継いだ毛利輝元さんは山城の吉田郡山城から三角州の広島(この地名は築城時につけた)に巨大な平城を築いて天正19(1591)年に移りましたが、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦で西軍の総大将を務めて敗北し、恥を知る武士であれば死に際を飾るべきところで生き恥を晒し、周防と長門の2カ国に大幅減封された上、萩への移動を命ぜられたのです。
ところが西軍の敗北=東軍の勝利については「毛利両川」と呼ばれた分家の吉川氏と小早川氏が重要な役割を果たしており、吉川広家さんは関ヶ原で東軍に内応するに当たり、「本領安堵の口約束を得ていた」と主張しましたが、大阪城内で徳川家を滅ぼした後の政権を取り決めた文書が発見されたことで反故になり、4分の1への減封を呑まざるを得なくなりました。ところが周防と長門2カ国の禄高が太閤検地では29万8480石2斗3合だったはずが、毛利家による検地の幕府への報告では53万9268石に倍増弱していて、関ヶ原での先陣の武勲で広島に入った福島正則さんの49万8000石を超えていたのです。このため公式には36万9411石3斗1升5合の禄高として家格も広島藩よりも下位とすることで収まりました。居城についても毛利家としては瀬戸内海運の拠点・防府や防長2国の中央に位置し、大内氏が西の京を築いていた山口を希望しましたが、幕府としては地の利を与える訳にはいかず、広島と同じ三角州でも不便な海辺の寒村に過ぎなかった萩に築城して居住することを命じたのです。事実上の領土内の流刑でした。
この山口への移住によって毛利氏は幕命への不服従を表明し、江戸時代260年間の怨念がこもった萩を捨てて自らが選んだ土地に住む藩主としての念願を果たしたのです。
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  1. 2020/05/14(木) 11:17:14|
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