fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月28日・毛利敬親が死去

1871(明治4)年の明日3月28日に幕末の防長2カ国の藩主・毛利敬親公が死去しました。毛利藩のことを山口県民まで「長州藩」と呼びますが、防州=周防国も治めていましたから呼称として正しいのでしょうか?
前田百万石は加賀、能登、越中の3カ国で「加賀藩」、鹿児島県民も島津藩は大隅を領しながら「薩摩藩」と呼ばれていますから、やはり殿様がいた土地の方が一段上と言うことなのでしょうか。ただ、大内氏の時代には周防の大内弘世公が長門の厚東義武を討って防長二国の守護職になっていますから風下に立つ必要はありません。
余談ながら江戸時代には生国を「△△国」と言いますが、藩は「☓☓家来」と主君の公式家格名で答えるのが普通でした(薩摩なら島津ではなく「松平修理大夫家来」です)。
毛利敬親公は「そうせい公」と言う仇名が有名です。家臣が何を言っても「そうせい」としか返事をせず、攘夷断行派が「異国船を撃ち払う」と言えば「そうせい」、尊皇過激派が「孝明天皇に長州へお移りいただく」と言えば「そうせい」、8月の政変の後、「帝に直接、毛利の義を訴える」と言えば「そうせい」、その結果、長州征伐を招いて老臣が「幕府に恭順する」と言えば「そうせい」、一転、倒幕派が実権を握れば「そうせい」でした。
ただ、毛利家中では「そうせい」としか言わない藩主を悪用して私腹を肥やすことなく、むしろ十分な検討の上、根回しを終えて藩内の意見をまとめてから藩主の裁可を仰ぐ気風が生まれたそうです。だからこそ「そうせい公」が名君足り得たのでしょう。
一方、「そうせい公」はただの担ぎやすい軽い神輿ではなく、優れた人材発掘の眼があり、50石の馬廻り役であった村田清風さんを抜擢して藩政改革を成し遂げさせ、まだ満10歳で藩校の兵学師範だった吉田寅次郎くんに山鹿流兵学を講義させて比類なき学才を認め、その後は子弟の礼をとったと言われています。
日本では黙って話を聞き、メ○ラ印を押す上司を「度量が広い」などと持て囃す傾向がありますが、それは多くの場合、野放しにされれば仕事がやり易いと言う部下の怠慢であり、上司が己れの無能さを隠す方便でしょう。毛利藩出身の乃木希典が参謀たちの稚拙な作戦を黙認していたのが好例です。
  1. 2013/03/27(水) 09:26:08|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<3月30日・テレビで巨人の星の放送が始まった。 | ホーム | 3月26日・成田空港の管制塔を過激派学生が破壊した。>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/614-a380c835
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)