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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月20日・中華民国軍機が九州で反戦ビラを散布した。

第2次世界大戦が勃発する1年前の昭和13(1938)年の明日5月20日に重慶を発進した中華民国軍のマーチン139型(Bー10の輸出仕様)爆撃機2機が東シナ海を超えて日本の領土の上空に侵入し、博多と熊本に反戦ビラを散布して帰還しました。
帝国海軍(陸軍は「無差別爆撃は武力紛争関係法違反の惧れがある」と拒否した)が重慶市の爆撃を開始したのはこの年の12月18日からですが、目的はあくまでも蒋介石の拠点の破壊であってこの1回だけの爆撃に脅威を感じた訳ではありません。
この作戦で使用したマーチン136型爆撃機はアメリカのマーチン社が1930年に開発を始めた全金属製で双発の爆撃専用の機体で、実用化した時点では世界最高水準の性能を発揮したため1934年からアメリカ陸軍航空軍団も導入しましたが、帝国陸軍の97式重爆撃機や帝国海軍の97式陸上攻撃機、ナチス・ドイツのユーカンスJu88爆撃機の出現によって一気に陳腐化したため1937年には生産が中止され、在庫だけでなくアメリカ軍が保有していた機体もオランダ、アルゼンチン、中華民国、トルコ、タイに輸出されていました。このため操縦していたのは大陸での日本と国民党政権の武力紛争に個人参加していたアメリカ人の義勇パイロットではなく徐煥昇と冬彦博の中国人で(航法士の氏名は不明)、2名とも終戦と国共内戦、国民党の台湾への逃亡まで生き残って英雄として勲章を授与されたようです。
この時、博多と熊本の上空を飛行しながら投下したのはあくまでも反戦ビラであって手榴弾1個も落とさず、拳銃弾1発も撃ち込んでいません。それはマーチン139型の航続距離が重慶から九州の片道にも届かない1996キロだったため爆弾倉に予備の燃料タンクを増設した上、本来は4名の搭乗員を3名にして極限まで軽量化を図っていたからです。
それでも中華民国は主にアメリカでこの飛行を「渡洋爆撃」と大々的に喧伝し、日本軍が中国各地を爆撃しているのに対して投下したのが反戦ビラだったことを「人道的遠征」と弁明しましたが、これは武力紛争関係法では地上戦の偵察も戦闘行為に含まれる規定を無理やり適用して(空戦規則は現時点でも未制定)、反戦ビラを日本人の戦意を喪失させる精神的武器にした虚偽に近い拡大解釈です。ただし、この反戦ビラは林房雄さんや中野重治さんと共に東京帝国大学でマルクス文学運動を発生させ、昭和7(1932)年には日本共産党に参加したため昭和9(1934)年に治安維持法違反で検挙されて獄中で転向した振りをして釈放後に中国に渡り、国民党政権に参加しながら日本軍捕虜や日本人保護民の共産主義への洗脳に当たっていたプロの作家の鹿地亘さんが執筆しましたから武器としては上等なものでした。
惜しむらくは空襲警報が発令されず、灯火管制もない夜間に街の灯りで都市部を識別して反戦ビラを撒いたのですが、折からの強風で飛散して博多や熊本市内ではなく大半は人通りもない郊外の田園地帯や山中に落ちて、翌日になって拾った住人は自主的に官憲に届けたため全く効果はなく、地方新聞が珍事として掲載しただけでした。当時の日本では「空襲」と言う攻撃方法が現実の脅威としては認識されていなかったようです。
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  1. 2020/05/19(火) 13:07:32|
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