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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月22日・長崎の写真家・上野彦馬の命日

明治37(1904)年の明日5月22日は高杉晋作よん(「さん」をつけるに値しない)や桂小五郎よんなどの毛利藩のテロリストや土佐の稀代の悪徳武器商人・坂本竜馬よんと山口・鹿児島藩閥の国家権力独占の犠牲になった逸材・後藤象二郎さんなどの写真を撮った上野彦馬さんの命日です。67歳でした。
同時代の写真家としては横浜でアメリカ人から撮影と現像の技術を学び、スタジオと器材を買い取って日本人初の写真店を開業した鵜飼玉川さんや横浜で外国人相手の土産として芸者や侍、庶民の風俗写真を売りさばいて海外で商品(作品とは言い難い)が発見されることが多い下岡蓮杖さんがいますが、被写体の知名度と人気、卓越した技量と独特のセンスで上野さんが「第一人者」と言う評価を獲得しているようです。
上野さんは天保8(1838)年に長崎の蘭学者の二男として生まれ、現在の大分県日田市で広瀬淡窓先生が開いていた咸宜園で2年間、儒学と漢詩や数学、天文学、医学などを幅広く学んで長崎に戻ると安政8(1858)年からはオランダ軍医のポンペ・ファン・メールデルフォールトさんを主任教官とする医学伝習所内の舎密試験所に入所して舎密学=化学を勉強しました。この勉強の中で蘭書に載っていた湿板写真に興味を持ち、友人と共同で研究を始め、書物を読み解きながら試行錯誤を重ね、必要な化学薬品を自作してついには写真の撮影と現像に成功したのです。化学薬品の自作においては現像に必要なアンモニアを精製するために肉がついた牛の骨を土中に埋め、腐敗してから掘り起こすなどの工夫をしています。またガラス板が現在のフィルムなのに対してプリントは卵白を用いた鶏卵紙に印画したため上野さんの自宅には鶏の卵の殻が山積みになって「いつからカステラ屋に転業したのか」と訊かれたそうです。
そうして写真屋としての技術を身につけると横浜と江戸に出てさらに腕を磨き、長崎に戻ると来日していたスイス人の世界的写真家のピエール・ロシエさんの教えを受けて長崎市内の中島河畔に上野撮影局を開店しました。すると長崎に来た人々が西洋文明に触れた記念に写真を撮影するようになりましたが、1枚が金3分=現在の3万円程度と高額だったため上野さんが好んで撮影した以外はあまり庶民の写真は残っていません。
上野さんはロシエさんから学んだのか、独自に研究したのかは不明ですが、被写体を椅子に座らせ、傍らに机を置くなど西洋風の小物を巧みに使い、集合写真では視線の方向をずらして姿勢も変えるなど画面構成を計算した撮影を行っています。その代表作が坂本よんが台に寄り掛かり、右手を懐に入れた肖像写真ですが、最近は上野さん本人ではなく弟子が撮影したとされています。また目を細めているのは近眼だったためで、一緒に撮影した目を大きく見開いた眼光鋭い写真も残っていますから実際の目は大きかったようです。
その後は風景写真も撮影するようになり、太陽の輪郭線に金星が沈む瞬間の天体写真の撮影に成功し、明治10(1877)年の西南戦争では従軍カメラマンとして日本初の戦場写真を撮影しました。さらにウラジオストクや上海、香港にも写真店を開業して経営者としても成功したようです。
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  1. 2020/05/21(木) 13:45:24|
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