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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月23日・東北人にとっては鬼神・坂上田村麻呂の命日

弘仁2(811)年の明日3月23日は皇室をこの国土の支配者と考える弥生系日本人には守護神でも安倍晋三首相を含む東北の縄文系日本人には鬼神に他ならない征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)さんの命日とされています。
坂上さんは平安時代でも遷都前後の最初期の人物のため物的証拠は皆無、公的記録も真偽不明なので神話=伝説と史実が混同して人間よりも神として崇拝されているようです。
坂上さんは明確になっている没年から死亡年齢を引いた結果、生年は天平宝字2(758)年と推定されていますが、父親は中国からの渡来者の家系と言われている坂上苅田麻呂と判っていても母親は不明であり、ここから伝説が始まっていて古くは北海道・東北出身説から20世紀になってカナダ人の人類学者がアフリカ系説まで提唱しています。
坂上さんの伝説と史実が混合した伝承の中でも比較的信憑性があるものを拾っていくと坂上氏は地方豪族でも曾祖父の代から勇名を馳せた武門の家柄で、天皇の警護で活躍して信任を得て、父・苅田麻呂さんの代には女帝を籠絡して皇位を狙ったと言われる道鏡さんを排斥した功績で陸奥守兼鎮守府将軍を拝命して半年後に安芸守に転任するまで13歳だった坂上さんも多賀城に同行して奥州の地で暮らしたと言われています。
宝亀7(778)年に21歳で朝廷に出仕し、宝亀9(780)年に武門の家柄らしく近衛府の将監に任ぜられ、天元元(781)年に百済(朝鮮)からの帰化人を母親に持つ桓武天皇が即位したため帰化人への優遇が強まり、坂上さんも異例の昇進を遂げて延暦5(787)年に父親が死亡した後には内匠助と近衛少将を兼務したまま越前守になって朝廷内の地位を盤石にしました。そうして延暦10(792)年に桓武天皇による2度目の東北侵攻が決定すると都に残った征東大使に代わって征東副使として10万人の軍勢を率いて東北に赴きました。東北では武力と懐柔の硬軟2策を使い分けて多くの部族を臣従させましたが、延暦13年(795)年まで騒乱も続発したようです。その一方で中央では延暦12(794)年に長岡京から後の平安京への遷都が行われるなど中央と地方は別世界として動く現在と変わらぬこの国の歴史が経過していました。
坂上さんは延暦15(797)年に武力と行政を担う征夷大将軍兼鎮守府将軍に任ぜられると4万人の軍勢を率いて多賀城に赴き、延暦21(803)年までの長期戦を実施して奥州王と呼ぶべき大部族の長・阿弖利爲さまを降伏させましたが、生命の安堵を保証をして平安京に連行すると平安時代としては保元の乱まで行われなかった死罪に処せられてしまったのです。そうして奥州への侵攻・制圧が完了すると坂上さんは中央政界に戻りますが、桓武天皇の崩御によって平城天皇が即位すると皇子が幼かったため弟を皇太弟子に立てたものの健康を害したため譲位したのです。これに妾として男児を産んでいた藤原薬子さんとその兄が介入して平安京と平城京の2つの都に分かれての「薬子の変」に発展すると武力鎮圧を命ぜられ、必要最小限の局地戦で極めて迅速に終息させました。
これらの功績により坂上さんは生前から朝廷と平安京の守護神とされ、災厄に備えて京都市山科区西野山に立った状態で東を向いて埋葬されたと伝わっています。
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  1. 2020/05/22(金) 12:13:02|
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