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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1925

2月上旬に高校3年生の学年末試験が終了し、後任に採用することが決まっている女子高校生が業務実習として書店に通ってくるようになると引き継ぎが終わった時点で照子は退職した。アパートも解約して自宅に戻ったが、臨月に入っても週1回のローカルFM局の仕事だけは森田予備士長が車で連れて行っている。森田予備士長はサブ・コントロール・ルーム=副調整室に入ることが許されガラス越しに照子の仕事を見守っていた。
「今晩は 今晩は 今晩は も一つおまけに今晩は 雪うさぎです。私は春になると毛が茶色に生え変わって雪うさぎって言う名前が似合わなくなっちゃうんですよね」照子は今日、家の前で洗濯物を干していて草むらに顔を出した雪うさぎに会ったのだ。雪うさぎはヨーロッパ・アルプス、北欧からシベリア一帯に分布する大型の野兎で、ユーラシア大陸の両端の離島であるイギリス、アイルランドと北海道にも個体群が生息している。冬は雪原の保護色で白毛になるが夏は褐色から薄茶色に生え変わるものの尻尾だけは白い毛のままだと聞いている。
「旭川も桜が咲き始めましたからそろそろ煮込みジンギスカンの準備を始めましょう。それでは最初のメールです」旭川のジンギスカンは専用の鉄板で焼くのではなくすき焼き鍋で煮込む。花見は日没後に昔は七輪、今はテーブル・コンロを桜の下に持ち込んで暖を取りながら呑んで喰って歌っての大宴会になる夜桜が定番だ。
「名寄の玉井真吾さんからです。屯田兵、子供は生まれたか。生まれたら知らせろよ。俺は男に賭けてるからな・・・ですって。これってウチの旦那さんのことじゃあないかしら」照子は当然、メールをプリントアウトして下読みしているからこの台詞も予定通りだが、森田予備士長は立ち合っていないので困惑していた。その顔をガラス越しに見て苦笑した。玉井真吾は昭和45年から46年に少年キングに連載されたサッカー漫画「赤き血のイレブン」の主人公で、名寄の安川和也3曹がサッカーを始めた時、同じくサッカー少年だった父親から秘蔵していた単行本をもらったと言う逸話は聞いたことがある。つまり安川3曹からのメールなのだ。
「ウチの子を楽しみにしてくれているのは嬉しいですが賭けは困ります。私としては旦那さんみたいなハンサムでスポーツマンで優しい働き者の男の子が希望ですけど、旦那さんは女の子が欲しいそうです。旦那さんの両親が女の孫が抱いてみたいって言ってるから親孝行なんでしょう。リクエストは森山直太郎で『さくら』です」安川3曹は学生運動の活動家と実際は反戦歌で売り出した森山良子の息子である森山直太郎の曲をリクエストしてきた。「歌が良ければ個人情報は関係ない」と言うのは平成の人間の感覚だ。
「・・・どんなに苦しい時も 君は笑っているから 挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよするよ・・・」森田予備士長もこの曲は好きだが、安川3曹は妻の聡美に贈る歌としてがリクエストしたような気がしてきた。聡美は中学・高校時代に教師である両親の不倫に悩み苦しみ、それにつけ入った男に弄ばれていたが、安川3曹と出会ったことで今の幸福な生活を築くことができた。だからこの歌の通りにいつも優しく微笑んでいるのだ。
「・・・桜、桜、今咲き誇る 刹那に散りゆく運命(さだめ)と知って さらば友よ 旅立ちの刻(とき) 変わらぬその想いを、今・・・」安川3曹が幹部候補生に合格したことは聞いているが、部内課程の入校は秋からのはずだ。おそらく名寄で見る桜が今年で最後になることを告げているのだろう。
「次は下川町の寝坊した熊さんからです。雪うさぎさん、今晩は。はい、今晩は。いよいよ産まれますね。女の子だったら名前は旭川で咲き始めた桜です。男の子なら柳川熊吉の熊吉ですよ。北海道を愛する雪うさぎさんならこれで決まりでしょう」柳川熊吉は戊辰戦争語、遺骸の放置を命じた新政府軍に背いて五稜郭で死んだ土方歳三や戦没者を手厚く埋葬したため死刑判決を受けたが、島津藩軍監の助命で許されると函館山に慰霊碑「碧血碑」を建立した人物だ。確かに北海道の傑物ではあるが我が子の名前には首を捻ってしまう。そう思ってガラス越しに夫を見ると笑ってうなずいている。これは気に入ってしまったのかも知れない。
「折角ですが雪うさぎの息子が熊吉では母親の身が危険になっちゃいます。桜は潔く散っちゃうから開拓者の家風には合いません。それではリクエストはコブクロで『蕾』です」コブクロには「桜」もあるが、歌詞の中で散る桜の情景を描いている「蕾」をリクエストしてきた。
「涙こぼしても 汗にまみれた笑顔の中じゃ 誰も気づいてはくれない だから貴女の涙を僕は知らない・・・掌じゃ掴めない 風に踊る花びら 立ち止まる肩にヒラリ 上手に載せて笑って見せた 貴女を思い出す 1人・・・」「痛い・・・」照子が昨年の春に森田予備士長と桜並木の下を歩いたことを思い出して笑顔を向けた時、痛みが腰から脳に突き抜けた。陣痛の始まりだ。担当者が音声を入れた直後だったため苦痛の声がラジオで流れてしまった。
あ・広橋照子(音無響子)イメージ画像
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  1. 2020/05/24(日) 13:23:14|
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