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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月25日・空襲で皇居・明治宮殿が焼失した。

昭和20(1945)年の明日5月25日の大空襲で桜田濠の現在の憲政記念館の位置に在った陸軍参謀本部で発生した火災が飛び火して皇居の明治宮殿が炎上しました。
この建物は明治宮殿と言う呼称でも判るように明治21(1888)年10月7日の落慶から57年弱で焼失しました。
明治天皇が江戸に出かけた時(正式な遷都ではない)は将軍の居宅と大奥があった江戸城の西の丸御殿に住んだのですが、明治6(1873)年5月5日の失火で全焼したため新政府はただちに新宮殿の建設を計画しましたが、国家の近代化と軍事力の強化に多額の資金を要していた時期でもあり、青山に在った紀州藩の江戸藩邸を仮皇居にしました。すると長土肥で不満分子の反乱が続発した上、明治10(1877)年には西南戦争が勃発して国費を使い果たし、宮殿建設はさらに先延ばしになったのです。
それでも国家体制の整備が進むと宮中での儀礼も規模が拡大し、回数も増加したため仮皇居では不都合になり新宮殿の建設に着手しました。ところが万事に西洋を模倣しようとする政府は招聘していたイギリス人建築家・ジョサイヤ・コンドルさんの設計による石造りの西洋式宮殿を提案したのに対して頑なに伝統を堅持したがる宮中は京都の御所と同様の和風建築を要求し、妥協の産物として外観は木造の和風でも内装は天井にシャンデリア、床には絨毯、扉はドアと言う洋式の和洋折衷式に決定したのです。そうして完成した明治宮殿は天皇が日常の政務を行う御座所と儀式の会場になる正殿、鳳凰の間と豊明殿などの表宮殿、天皇の居宅である奥宮殿を接続した一体構造だったそうです。
東京は第2次世界大戦でサイパン島が陥落してBー29の航続距離内に入ってからは空襲が本格化して、昭和19(1944)年11月24日以降、規模の大小はあっても合計106回の空襲を受けました。それでも警視庁消防隊は決死の消火活動を繰り広げ、火災は喰い止めていたのですが、この日は19名が殉職しながら延焼は阻止できませんでした。全焼した宮殿を視察された昭和の陛下は侍従に「これで国民と一緒になった」と呟かれ、力不足と迷惑を詫びる警衛局内匠頭には「戦争だから仕方ない。多くの犠牲者が出たことが残念だ。気の毒だ」と答えられたそうです。
この日の空襲は470機のB-29の大編隊がそれまであまり被害を与えていなかった山の手を中心に爆撃し、中野、四谷、牛込、麹町、赤坂、麻布、芝、世田谷、渋谷、青山、目黒、杉並、小石川、本郷、大森、品川、城東、深川、浅草、葛飾、荒川、江戸川、滝野川、下谷、京橋、淀橋、足立、神田、荏原、豊島、日本橋、王子、板橋、向島などの都内と立川市から奥多摩などの都下にまで及び、焼失家屋166000戸、死者3651人でこの中には市ヶ谷の陸軍刑務所で焼死したアメリカ軍捕虜62人も含まれています。
昭和の陛下と家族は鉄筋コンクリート製で無事だった御文庫を仮住まいとされて明治宮殿から渡り廊下で接続されていた宮内省の3階を仮宮殿としたのです。明治宮殿の跡地に現在の宮殿=吹上御所が建設されたのは高度経済成長が本格化した昭和43(1968)年になってからでした。
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  1. 2020/05/24(日) 13:24:26|
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