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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1926

照子は数回深く息を吸って吐くとメールを読む前に腹を手で押さえてガラス越しに見ている森田予備士長に陣痛が来たことを合図した。それを見た森田予備士長はサブ・コントロール・ルームを出て廊下で産婦人科に第1報した。初産の照子は予定日にも診察を受けていて内診で子宮口の確認も受けているが、まだ開いておらず「1週間程度遅れる」と予告されていた。
「はい、陣痛が始まったみたいです。はい、今はラジオの放送中です。はい、あと10分で終わります。はい、そのまま連れて行きます」森田予備士長が廊下で当直の看護師の指示に復唱しているとメイン・コントロール・ルーム=主調整室(=放送全体を統括する部屋)から父と同世代の中年男性が歩いてきて傍らで立ち止まった。
「陣痛が始まったんですね。番組の最後で4週間休むことを説明してもらいましょう」電話を終えた森田予備士長と並んで歩きながら男性は事前に決まっている産休の予定を確認してきた。週に1回、準備を含めても2時間程度の仕事ではあるが、産後4週間の復帰には不安がある。それでも1ヶ月検診には母子で旭川市内まで来るのだから問題はないのかも知れない。
「次は最後のメールになります。旭川市内のラジオ・ネーム・回る時代さんです・・・春の訪れと新たな命の誕生が重なって今年の4月は幸せな気分です」男性と一緒にサブ・コントロール・ルームに戻ると陣痛が収まった照子はガラス越しに笑顔を見せてうなずいた。
「僕は中島みゆきの大ファンなのであまり元気が出る歌は知りませんが、この歌なら照子さんも頑張って立派な赤ちゃんを産んでくれそうです。『ファイト』をお願いします。そんなことないですよ。『地上の星』と『ヘッドライト・テールライト』はNHKの『プロジェクトX・挑戦者たち』の主題歌で、昭和世代の小父さんたちを元気にしたじゃあないですか。この歌も阪神大震災と地下鉄サリン事件の後に中島みゆきがコンサート・ツアーで熱唱したんですよね。それでは今から頑張る私と子供と皆さんのために回る時代さんから『ファイト』をお送りします」男性はいつもと変わらぬ照子の口調に安堵したような顔になり、CDが流れ始めたところで担当者がマジックで「4週間産休の説明」と走り書きした紙をガラスに掲げた。
「・・・ファイト!闘う君の唄を 闘わない奴が笑うだろう ファイト!冷たい水の中を 震えながら上っていけ・・・」紙を確認した照子は顎でリズムを取りながら説明の言葉を思案している。その間も無意識に腹を撫でている仕草に森田予備士長は照子の母への羽化を感じて胸が熱くなった。やがて曲が終わった。
「実は先ほど陣痛が来たみたいで回る時代さんの応援歌はジャスト・オン・タイムでした。ファイト!闘う私の唄を有り難うございました。そんな訳で4週間、4回は休ませてもらいます。頑張ります・・・痛ッ」番組が終わったところで2度目の陣痛が始まった。本当に親孝行な子供らしい。森田予備士長も参加した出産教室では陣痛についても具体的に教えられており、第1報以外は10分間隔になるまでは連絡しないように言われている。つまり本来は入院する段階ではないのだが、産婦人科は牧場からの所要時間を考慮して受け入れてくれたようだ。
「そろそろ分娩室に入りましょう。お父さんも一緒にどうぞ」始まって10時間過ぎて翌朝になると、陣痛は仮眠できないほど間隔が短くなり、巡回に来た看護師の報告を受けた助産師の指示で分娩室に移動することになった。乳牛の出産を経験している森田予備士長は事前講習を受けているので我が子が誕生する瞬間に立ち合うことができる。
「さァ、立って。自分で歩いて行きますよ。歩きながら呼吸法を続けて下さい」照子と同世代の看護師は冷静に指示を与える。照子は額の汗を入院着の袖で拭うと「スースー、ハーハー」と声を出しなら呼吸法を始めた。森田予備士長は横で手を取りながらついて行く。
「はい、分娩台に横になって下さい。講習で習ったとおりです」分娩室で待っていたベテランの助産師は看護師よりも冷静に照子と森田予備士長と担当の看護師を指揮して準備万端整えた。芦屋の母からは「陣痛は生理痛が数倍強烈になったようなもの」「出産なんて1年便秘したウンコがやっと出た感じ」と電話で極めて判り易く説明を受けているが、森田予備士長自身は生理痛の経験はない。一方、便秘の方は冬季の雪中演習に行くと身体が零下30度での野糞を避けようとするのか出なくなることがあるのでその感覚は理解できる。
「ファイト!踏ん張って出してしまえ」森田曹侯補士は助産師に促されイキんでいる照子の枕元で両手を握りながら適切だが具体的過ぎる声援を送った。すると助産師に腹を圧迫された我が子が頭を出し、意外にスルリと生まれてきた。
「ホギャー、ホギャー・・・」「牛よりもスムーズだな」「馬鹿」長い脚が邪魔になる牛よりも楽に生まれ、元気に産声を上げ始めた我が子を見て森田予備士長が率直過ぎる感想を口にすると照子は呆れたように叱責した。毎日新鮮な牛乳を飲んでいるだけに色白の女の子だった。
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  1. 2020/05/25(月) 12:51:58|
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