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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月26日・本来の「坂の上の雲」?白川義則大将の命日

昭和7(1932)年の明日5月26日は伊予・松山出身で戦史に名を残す白川義則大将の命日です。
司馬遼太郎先生の代表作「坂の上の雲」は伊予・松山出身の秋山好古陸軍大将と真之海軍中将の軍人兄弟に畑違いの俳人・正岡子規さんを加えた3人で構成していますが、本来は白川大将を描くべきだったのではないでしょうか。白川大将は好古大将よりも10歳、真之中将の1歳年下に当たる明治元(1869)年に伊予・松山藩士の3男として生まれました。ちなみに没年は好古大将の2年後、真之大将の14年後なので同時代の人物と言えないことはないはずです。
真之中将や正岡さんと同じく旧制松山中学校に進学しますが中退して代用教員になり、さらに明治17(1884)年に我が一般曹侯補学生の前身のような陸軍教導団に入営すると2年後には工兵軍曹として近衛工兵中隊に配属され、翌年には新設された士官候補生(現在の部内課程に近い)として陸軍士官学校に入校すると歩兵に転科して明治23(1890)年に卒業、少尉として当時は広島にあった歩兵第21連隊で勤務しました。この士官候補生1期には同様に代用教員から陸軍に入営した鈴木荘八大将や宇垣一成大将がいました。そして少尉のまま明治26(1893)年に陸軍大学校に入校しますが、日清戦争の勃発により課程中止になって中尉として出陣し、終戦・帰還後の明治29(1896)年に復学して、以降は明治38(1903)年に浜田に移駐した歩兵第21連隊の大隊長として日露戦争に出陣するなど明治・大正期の陸軍で順調に昇任していきました。
ところが田中義一内閣の陸軍大臣だった昭和3(1928)年6月4日に満州で河本大作大佐の策謀による張作霖爆殺事件が起こると田中首相は当初、昭和の陛下に関東軍の関与を認め、徹底的な調査と関係者の処罰を約束しながら陸軍の強硬な反発に晒されると一転してあやふやな説明を始めたため信認を失って退陣しました。この時、白川大臣は陸軍内の現状を具体的に説明し、陛下の意向に反する揉み消しの処置を取らざるを得ないことを謝罪して、逆にその誠実で冷静な人間性を認められています。
陸軍大臣を退任した白川大将は昭和7(1932)年1月18日に第1上海事変が発生すると上海派遣軍司令官に就任しましたが、陛下から「国民党軍を撃退しても長追いしてはならぬ。3月3日の国際連盟までに停戦して欲しい」と要望されたためこれを忠実に守り、戦果拡大を狙う中央や勝ち戦さにはやる現場部隊の積極攻勢=徹底追撃の大合唱を抑え、上海の占領に専念しました。しかし、昭和7(1932)年4月29日の天長節の式典での国歌斉唱中に朝鮮人暴徒の尹泰吉が投げた弁当箱の爆弾が破裂し、重光葵敗戦時の外務大臣は右足を失い、日米開戦時の駐米大使だった野村吉三郎海軍大将は片目を失い、白川大将も全身108カ所に傷を負ったのです。その後、手術によって症状は小康を得ましたが、3日前から容態が急変して亡くなりました。63歳でした。
白川大将の3男・元春空将は陸軍航空士官学校を卒業し、戦後は航空自衛隊に入隊して第11代航空幕僚長、統合幕僚会議議長に就任しています。
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  1. 2020/05/25(月) 12:54:44|
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