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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1928

「妻に、ジェニファー・ビーンズに陣痛が来ました」裕美2曹はシートに横になったジェニファーに呼吸の調子を取りながら腰をさすった。その横で工藤はスマートフォンで出産予約している産婦人科医院に連絡を入れた。すると間もなく陣痛は治まった。
「陣痛の間隔が5分以内になってからもう一度連絡して連れて来てくれだそうだ」「入院の準備は終わっているんですか」「必要な書類と衣類はカバンに詰めてあるけど下着類は毎日のことだから・・・」工藤の説明を受けて裕美2曹はジェニファーに確認した。万事にマニュアル式のアメリカでは入院の準備も出産講座で渡されたパンフレット通りだが、持ち物に「下着は何枚以上」と書いてあっても毎日交換して洗濯するのでカバンに詰めておく訳にはいかない。
「食事は」「帰りにレストランに寄ろうと思っていたからまだです」「もう気分は良いのよね。だったらこのお弁当を食べて。食べられる時に食べておかないと頑張れないわよ」裕美2曹の言葉にジェニファーが起き上がると周囲にはアメリカ人たちが集まっていた。その顔は興味本位の野次馬ではなく心配と協力のためなのが一目瞭然で、むしろ芝生に敷いたシートから遠目に眺めながらささやき合っている日本人の方が冷淡だ。
「産まれそうなの」「病院に連絡したの」「陣痛の間隔はどれくらい」裕美2曹以上に経験豊富そうな女性たちが次々に質問してくる。この公園はマンハッタン区と言うこともありヨーロッパ系の中高年齢者が多いがアフリカ系のジャニファーを心から心配していることが判る。裕美2曹が小春を出産したのは北関東の駐屯地で勤務していた頃だが、官舎の主婦たちは兎も角として市内に買い物に出るとアカラサマに迷惑そうな視線を浴びせられて不快な思いをしたことに比べるとアメリカ人の意外な国民性に困惑と羨望を感じた。
「ハズ(旦那)はどこなんだ」「はい、私です」前に列を作っている女性たちの後ろで中年の男性が周囲を見回しながら声をかけると工藤が返事をした。男性は自分と同世代の工藤の顔を見て驚いたように指で眼鏡をかけ直した。この遣り取りに振り返った女性たちは驚きと呆れが入り混じった顔で工藤とジェニファーを見比べた。
「ハズが一緒にいて、病院の予約もできているなら心配はないわね」「後は病院へ行って麻酔薬を打ってもらえば産まれてくるのを待つだけよ」状況に緊急性と不安がないことを確かめると集まっているアメリカ人たちの言葉は激励に代わった。それにしても「産婦人科で麻酔を打つ」と言うのは無痛分娩ではないか。裕美2曹も知識としては学んでいるが、日本では「特別な事情がない限り勧めない」と言われている。これは女性として興味が湧いてきた。
「このフライは美味しいわ」「かき揚げの天婦羅よ」しかし、裕美2曹が質問しようとしてもジェニファーは一緒に食べ始めた小春から弁当の説明を聞きながら舌と耳と目で味わうことに夢中だ。こうなると折角の料理が不味くなるような質問は控えるべきだろう。
「これも天婦羅なのね。私は1つの材料を揚げることしか知らなかったわ」「お父さんが好きなの」するとかき揚げの天婦羅が好物の千秋1佐が解散したアメリカ人たちを見送っている工藤を手招きした。工藤は黙礼すると靴を脱いでジェニファーの隣りに座り、履いたままの靴を脱がしてシートの隅に並べて置いた。
「花見団子も手造りのようですが、奥さんは料理が上手なんですね」「女ばかりの3人姉妹で育ちましたから家が女性自衛官教育隊みたいなものです」個人情報を秘匿することを指導してきた工藤としては日本語とは言え自衛官としての身分を口にした裕美2曹に若干の違和感を覚えたが、現在の組織が松山千秋1佐の型にとらわれない指揮で活性化していることは諸西1佐から聞いているので特に何も言わなかった。
「ジェニファーさんは無痛分娩の予定なんですか」ここでようやく会話が途切れ、裕美2曹が質問するとジェニファーは頬張ったお握りを呑み込んでから答えた。
「私は40歳を過ぎた初産だから母体に負担がかからないように勧められたのよ。でもアメリカでは出産に保険が使える女性の間では常識になってるわね」やはりアメリカの出産方法の選択は医療費を保証する保険に連動するようだ。
「私も立ち合って良いですか。特に役には立ちませんが」「それは大歓迎よ。ダディも色々と勉強しているけど経験者には敵わないから助かります」家族に相談もなく話が決まってしまった。裕美2曹としては小春にも生命誕生のドラマを見せたいのだが、初産は時間がかかるので明日の通学までに生まれるとは限らない。自分の仕事は夫がトップなので承認はこれで済む。
「ならば私の今日の夜勤は休まなくても良いかな。そうすれば明日、明後日は休みになるから助かるよ」工藤は後任が決定してからニューヨーク州で資格を取得して、今は日系企業のガードマンなのだ。本人としては制服を着て、挙手の敬礼をする仕事に満足している。
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  1. 2020/05/28(木) 13:25:34|
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