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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1929

夕方、工藤が仕事に出掛ける時間に合わせて裕美2曹が2人の家に行った。松山家では今夜から明朝の登校までは千秋1佐が小春と過ごし、家事一切を引き受けることになっている。
「それじゃあ気をつけてな。慌てて産まなくても良いぞ」「そればかりは約束できないわ。この子次第よ」早目の夕食を終えて工藤はソファーで陣痛に耐えているジェニファーの前に跪くと膝に手を置いて話しかけた。裕美2曹は間もなく定年退官する父親の中村正敏曹長よりも年長のはずの工藤の甘く優しい言葉に困惑しながら遠くから2人の姿を眺めていた。
「ベビー、明日の10時までダディを待っているんだぞ」立ち上がった工藤はジェニファーの腹に口を当てて話しかけた。陣痛が始まったのは昼前なので時間がかかる初産でも午前10時はギリギリの線だ。部屋の隅で裕美2曹は未知の無痛分娩による出産について思案していた。
「それでは妻と我が子をお願いします」玄関まで見送るとドアを開ける前、工藤は自衛隊式の回れ右をしてかぶっているニューヨーク・メッツの野球帽の庇に手を掲げて敬礼した。
「工藤さんは楽しみにしてるんでしょうけど明日の10時まではかからないよね」居間のソファーに戻った裕美2曹は陣痛が収まったらしいジェニファーに声をかけた。これはまだ陣痛に耐えなければならないジェニファーを安心させるための言葉でもある。するとジェニファーは自分の腹を撫でながら静かに話しかけた。
「貴方もダディに迎えてもらいたいのね。私も一緒だよ。2人で待っていようね・・・痛いッ」ジェニファーの呼び掛けに反抗するようにお腹の子は外に出ようとした。裕美2曹は出産の時、千秋1佐から「四苦の生老病死の生はジャーティーと言って産まれる時の苦痛だ。母親だけでなく子供も苦しいんだ」と教えられた。これが守山時代の坊主の中隊長からの請け売りなのは言うまでもないが、産まれてくる子供としては父親を待つよりも一緒に苦しんでいる母親を思いやった孝心なのかも知れない。
「5分切ったわね。産婦人科に電話して行きましょう」腕時計で時間を確認した裕美2曹が促すとジェニファーは深くうなずいて肘かけに手をついて立ち上がった。
「子宮口の状態から見て3時間以内には産まれるでしょう」タクシーで産婦人科医院に向かうと準備は整っていた。アメリカの産婦人科医院は病院で勤務している医師たちが共同経営し、交代で診断しているためジェニファーは今日の当直の医師とも意思疎通はできている。最近のアメリカでは入院してそのまま病室で出産するLDRと呼ばれる設備を売り物にしている産婦人科医院や病院が増えているようだが、この医院では日本と同じく分娩室で出産するようだ。
一方、ここに来る時、マンションの前でタクシーを拾ったのだが、日本では車内で出産と言う緊急事態を避けるため臨月と判る妊婦が手を上げていても素通りするタクシーがあるのにアメリカでは気がついた運転手の方が止まって声を掛けてくれた。エレベーターの中からスマートフォンでタクシーを呼ぼうとする裕美2曹にジェニファーが「不要」と言ったのは当然だった。
「こちらはミスター工藤の娘さんですか」「いいえ、それでも私たちが信頼している共通の友人です」裕美2曹はジェニファーとは顔見知りらしいアフリカ系のベテラン看護師から立ち合い人になるための適格性の確認を受けた。裕美2曹としては自分が経験していない無痛分娩に対する好奇心から立ち合いを申し出たのだが、その前から困惑と発見の連続になっている。
「それでは腰に鎮痛薬を点滴しますから裸になって横を向いて下さい」「えーッ、裸で子供を産むんですか」看護師の指示を聞いてジェニファーではなく裕美2曹の方が驚愕の声を上げてしまった。日本では入院衣に着替えて分娩台に乗せられてから下半身を裸にされるが、その時も「出産だから仕方ない」と自分に言い聞かせて羞恥心を打ち消している。ところがアメリカでは緊急に帝王切開しなければならない場合などの処置に備えて全裸で出産する医院・病院が多数派とのことだ。それにしてもこんなことに驚嘆していては立ち合い人としての信頼性に疑問符がついてしまいそうだ。裕美2曹は自分もきている入院衣を摘まんでみた。
看護師はベッドの脇で覗き込んでいる裕美2曹に微笑みかけながら長いピンセットで摘まんだ大き目の脱脂綿をビーカーのヨードチンキに浸し、腰全体に塗り始めた。こんな言い方は人種差別になりかねないがアフリカ系のジェニファーの肌の色には違和感がない。
「点滴は腕にしないんですか」「これは硬膜外麻酔と言って下半身に限定した鎮痛処置なんですよ。腕に点滴することもありますが、そうなると母親の脳まで麻酔されて意識がなくなる上、胎児にも影響するから分娩に支障が生じることが多いんです」看護師は勉強熱心な立ち合い人に興味を持ったようで、仕事の手を止めることなく丁寧に説明を始めた。
「痛みは消えましたか」「はい、効いています」看護師の確認にジェニファーが答え、いよいよ無痛分娩が始まるようだ。工藤も本当は「無理なお願い」であることは判っているはずだ。
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  1. 2020/05/29(金) 13:22:14|
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