FC2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1930

「今はどんな気分なの」分娩台に横になってもジェニファーは普段と変わらぬ表情で医師が腹を圧迫して子供を押し出そうとしているのを傍観している。裕美2曹は自分が経験した出産とは別次元の光景に思わず質問してしまった。あの時は陣痛に耐えながら助産師の音頭に合わせた看護師たちの声援を受けて「キエーッ」と言う空手の気合と共に小春を産んだのだ。
「ベビーが頭で子宮口を押しているのは判るけど、私がドアを開けないから出てこられないみたい」痛みがない分、ジェニファーの分析は冷静だ。アメリカでも最終段階は息むらしいが、母親がその感覚が判らずに吸引分娩や医師が鉗子で頭を挟んで引き出すことも珍しくないと言う。
「それではジェニファー、大きく息を吸って腹に力を入れなさい」すると股間に回った医師が息むように指示した。腹を圧迫する役はベテランの看護師に交代している。
「腹の中身を股間から押し出すつもりで力を入れるのよ」裕美2曹は分娩台の頭側に回ると取っ手を握ったジェニファーに声を掛けた。それを受けてジェニファーは顔を歪ませて息み始めた。やはり鎮痛剤で陣痛は押さえても胎児が頭で内蔵である子宮口を押し広げる刺激は別のようだ。ジェニファーの額には汗が噴き出している。
「頑張れ、頑張れ、頑張れ・・・」気がつけば裕美2曹は分娩室での看護師たちの役を演じている。声援は日本語になっているがこの子どもは日米のハーフだから意味は通じるはずだ。
「イエス(そうだ)、カミング(来い)、カミング・・・」「レッツ(さあ)、プッシュ(押せ)、プッシュ、プッシュ・・・」股間を覗き込んでいる医師と腹を圧迫している看護師も声を掛けている。ジェニファーの声が悲鳴になった時、医師が両手を伸ばした。
「OK、ウェルカム(いらっしゃいませ)」「ミュウール(mewl)、ミュウール、ミュウール・・・」医師の歓声の後に聞こえてきた赤ん坊の泣き声はやはり英語だった(そんな訳がない)。
「オー、マイガー(ああカミよ)」ジェニファーは涙を浮かべて天井に向かってかすれた声で呟いた。その虚脱感と達成感が混在する顔を見下ろしている裕美2曹は自分の経験を重ねながら感激を噛み締めていた。ところがここからアメリカ式出産の発見と困惑、驚愕の再開だった。
「ジェニファー、貴女が産んだボーイだよ」看護師はヘソの緒を処置してタオル状のガーゼで拭いただけで裸のまま赤ん坊を抱いて見せにきた。日本では分娩室内の湯船で産湯に入れて母体内から付着してきた血液や出産時に漏れた尿や便などの汚物を洗い落とすが、アメリカではヘソの緒が取れて固まるまで湯を浴びせることは禁止なのだ。それは母親も同様でシャワーを浴びることもできない。さらに出産時は血液が凝固し易くなるため安静にすれば血流が滞り、血栓を起こす危険性があるため通常の出産の入院は2泊だ。これには医療費負担の問題も絡んでいるらしい。
「男だって」翌朝、10時よりも少し前に工藤が病室に掛け込んできた。現役の頃は「常に沈着冷静で泰然自若だった」と聞いている日本版MI6の現場指揮官とは思えない興奮度だ。工藤は起こしたベッドに寄り掛かっているジェニファーの手を取ると感謝の言葉を連射し始めた。
「グッドジョブ(よくやった)、ウェルダン(でかした)、ビッグ・ペィッテン(大手柄だ)・・・サンキュー(ありがとう)」興奮していても英語で呼びかけるところは流石にアメリカ生活30年オーバー(超)だ。工藤は微笑みながら涙を浮かべたジェニファーの額に唇を押し当てた。
「佐田さん(松山家の偽名)、どうもお世話になりました」「いいえ、こちらこそ勉強になりました」工藤はジェニファーへの感謝と慰労、隣りのベビー・ベッドに寝ている息子との対面に続いて壁際に立っている裕美2曹に日本語で声をかけて頭を下げた。ここで握手を求めないところは日本的な男女の距離感だろう。
「それでは名前を披露します」挨拶が終わったところで工藤は妙にかしこまった顔になると姿勢を正し、羽織っているジャケットのポケットから紙を取り出した。紙を広げて掲げるとマジックで大きく「命名・平助・Hesuke」と漢字とアフファーベットで3段に横書きしてある。
「平助くんですか」「ヘースケ・・・」裕美2曹が名前を読み上げると意味を察したジェニファーも相槌のように復唱した。
「江戸時代の蘭方医で『赤蝦夷風説考』を著した工藤平助から採ったんだ。この子にもあの時代の日本で海外事情を正確に捉えていた工藤平助のような目を持ってもらいたいと言う願いを込めた」説明に熱弁を揮う工藤に裕美2曹は夫との日常風景を重ねてしまった。
「私はジェニファーが妊娠したと聞いた時、倉田の生まれ換わりだと思った。否、思おうとした。しかし、腹の中で成長していくのを実感するに従って自分の生命を受け継ぐ我が子だと理解した。この子が私に新たな生き甲斐を与えてくれたようだ」工藤は紙をジェニファーに手渡すとベビー・ベッドを覗き込んで平助に顔を近づけた。アジア系とアフリカ系の両親の息子は産毛が黒く、肌は日焼けした日本人のようだ。顔がどちらに似るかはこれからの楽しみだ。
JenniferBeals2.jpgイメージ自画像
スポンサーサイト



  1. 2020/05/30(土) 12:13:18|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<5月31日・ナチスの戦犯・アイヒマンがイスラエルで処刑された。 | ホーム | 5月30日・仙台市での朝鮮戦争・大梶南事件が発生した。>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/6169-900ffc5b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)