FC2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月1日・虫送りの神さま・斎藤実盛が討ち死にした。

平安時代末期の源平の争乱の中、寿永2(1183)年の明日6月1日の加賀国の篠原の戦いで平家方の武将・斎藤実盛さんが討ち死にしました。
現在も西日本では稲の害虫を鎮めるため集落から集落が持ち回りで「実盛さま」と呼ぶ藁人形を神輿に載せて田園を隈なく巡り歩く「虫送り」と言う儀式が行われていますが、その祭神は斎藤さんなのです。
斎藤さんは芥川龍之介さんの傑作短編小説「芋粥」でうだつが上がらない役人の念願だった「芋粥を腹一杯食べさせてやろう」と自領の敦賀に招いた藤原利仁さんの末裔で、斎藤さんも天永2(1111)年の越前国の出身ですが、武蔵国に領地を与えられたため源氏と平家の抗争の時代には関東で暮らしていました。やがて源義朝さんが関東に来て鎌倉を拠点にして相模国を圧えると義朝さんの父親で源氏の頭領だった為義さんは弟の義賢さんも関東に送り出して対抗させようとしました。すると義賢さんは武勇に優れる兄との直接対決を避けて上野国に入りましたが、義賢さんが河内源氏の祖・源頼光さま以来、嫡流が継承する太刀・友切を授けられていることを知った義朝さんが長子(嫡男ではない)の鎌倉悪源太・義平さんに命じて討ち滅ぼしてこれを奪ったのです。この時、斎藤さんは義平さんの武勇と激しい性分を怖れてそれまで友好関係にあった義賢さんを見捨てましたが、遺児を匿っていた家臣から預かり、信濃国の豪族に嫁していた乳母のところにまで送り届けて託しました。この遺児が後の木曽義仲さんです。
保元・平治の乱では源義朝さんに参じて武勲を上げましたが、平治の乱が敗北に終わると手配よりも早く武蔵国に戻り、平家に臣従して源氏滅亡後の関東での支配に貢献したため知勇に優れる武将として存在を認められるようになったのです。そのため源頼朝さんが挙兵すると鎮圧に派遣された平維盛さんの陣に加わりましたが、富士川の陣中で坂東武者の強さと勇猛さ、残酷さを率直に述べたため怖気づかせてしまい、水鳥の羽音を敵襲と思い込んで逃亡させてしまったと平家物語には描かれています。
それでも斎藤さんは平家に従って京に上り、信濃国で挙兵して倶利伽羅峠の戦いで勝利して勢いに乗る木曽義仲さんを北陸で阻止する命を受けました。そうして迎えた篠原の戦いでは斎藤さんはこれが最後と覚悟を決め、「老武者では情けをかけられる=武門の恥辱」と白髪を墨で黒く染めて出陣したのです。このため平家物語の「実盛最期」(独立した1篇になっている)では木曽さんの家臣が名乗りを上げても「故あって名乗ることはできないが、尋常に勝負しよう」と応えて立ち合って討ち取られ、首を検分した木曽さんの陣中では顔を知っている別の家臣が「斎藤実盛殿では」と言っても「72歳の高齢には見えない」と訝り、髪を水で洗わせて本人と確認し、木曽さんは命の恩人を討ってしまったことを悔やんで人目をはばからずに号泣したと記しています。
この最期の戦いでは斎藤さんの馬が稲の切り株に足を取られて落馬したことで不覚を取ったため「死んだら稲の害虫(=ウンカ)になって喰い荒してやる」と言い遺したとの伝承から虫送りの「実盛さま」になったそうです。つまり祟り神です。
スポンサーサイト



  1. 2020/05/31(日) 13:10:15|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<振り向けばイエスタディ1932 | ホーム | 振り向けばイエスタディ1931>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/6172-fec2ab4b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)