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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月13日・「小さな親切運動」本部が設立された。

1963年の明日6月13日に「小さな親切運動」本部が設立されました。
野僧の岡崎市立矢作南小学校は「小さな親切運動」に極めて熱心で校舎のいたるところにポスターが貼ってあり、児童は「できる親切はみんなでしよう。それが社会の習慣となるように」と言うスローガンと共に1「朝夕の挨拶を必ずしましょう」、2「はっきりした声で返事をしましょう」、3「他人からの親切を心から受け、『有り難う』と言いましょう」、4「人から『有り難う』と言われたら、『どういたしまして』と言いましょう」、5「紙くずなどをやたらに捨てないようにしましょう」、6「電車やバスの中で、お年寄りや赤ちゃんを抱いたお母さんには席を譲りましょう」、7「人が困っているのを見たら手伝って上げましょう」、8「他人の迷惑になることは止めましょう」の「小さな親切」8カ条を覚え、江田島の「五省」のように機会を見つけて自己診断していたのです。さらにテーマソングの「みんなのしあわせ」も唄えるようになり、おまけに「小さな親切運動」の映画を上映し、夏休みの宿題に作文コンクールに応募する作文を書かせていました。どうして矢作南小学校がここまで「小さな親切運動」に執心していたのかと言うと昭和38(1963)年3月の退任前の東京大学の卒業式の式辞で「『小さな親切』を、勇気を持ってやっていただきたい。そしてそれが日本の社会の隅々まで埋め尽くすであろう親切と言う雪崩の芽としていただきたい。大学で学んだ様々な知識と教養を、ただ頭の中に百科事典のように蓄えておくだけでは立派な社会人とはなれません。その教養を社会人としての生活に活かしていくには、やろうとすれば誰にでもできる『小さな親切』を絶えず行っていくことが大切です。『小さな親切』はバラバラな知識を融合させる粘着剤の役目を果たすのです」と提唱した茅誠司総長が我が矢作南小学校の大先輩の本多光太郎博士の教え子だったからです。茅総長は東北帝国大学で本多博士に師事しましたが、金属物理学と原子物理学に分野が別れたこともあり学術的な見解では必ずしも一致せず、学界では距離を置いていたようです。東京大学を退任した茅先生は卒業式の式辞が新聞やラジオ、テレビで取り上げられ、社会で共感の声が起こっているのを確かめると東京都千代田区神田に「小さな親切運動」本部を設立し、初代代表に就任し、その後、死の2年前の昭和61(1986)年に87歳で退任するまで23年間にわたって務めました。
しかし、「小さな親切運動」は日本人の精神性が残っていた昭和だったから社会に温もりと潤いを与えましたが、平成のギスギスとした風潮の中で完全に廃れてしまったのではないでしょうか。野僧が現世の三悪道である愛知県宝飯郡一宮町(現在の豊川市)の一宮中学校に入ると「小さな親切運動」とは逆の「棘で刺す意地悪運動」が横行しており、矢作南小学校の習慣で親切を実践すると「お節介焼き」と学校ぐるみの集団リンチに遭いました。確かに某一宮中学校出身者は野僧の病気が重篤になり、永訣の辞として「変わらぬ愛」を告げると「貴方は優しくするのが好きな人だと思ったからつき合ってきただけ」「優しさを押しつけられて迷惑だった」と切って捨てましたから、宝飯郡一宮町で「小さな親切」は「大きなお世話」以外の何物でもないようです。
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  1. 2020/06/12(金) 13:33:47|
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