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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月15日・ハンモックナンバーの検証材料?高橋三吉大将の命日

昭和41(1966)年の6月15日は兵学校の卒業序列が最後までつきまとった帝国海軍の人事を検証する上で格好の材料である高橋三吉大将の命日です。
高橋大将は明治15(1882)年に旧岡山藩士から出仕した宮内省職員の3男として東京で生まれました。明治34(1901)年に29期生として125名中5位の成績で海軍兵学校を卒業しましたが、同期には後に海軍大臣・総理大臣となる米内光政大将や6号潜水艇の事故で殉職する佐久間勉大尉、さらに退役後、明治神宮の宮司を経て昭和の陛下の侍従長になりマックアーサー元帥との会見に同行した藤田尚徳大将がいます。中でも佐久間大尉とは「在学中から親友だった」と回想しています。
明治37年に開戦した日露戦争の黄海海戦では駆逐艦に乗務して水雷戦、日本海海戦では戦艦に転任して砲撃戦を経験しますが、これは成績優秀者を育成するための人事だったようです。日露戦争後は砲術学校、続いて海軍大学校に入校し、第1次世界大戦中の大正4(1915)年にはヨーロッパに出張して、帰国後は小規模な艦隊で海賊的に船団を襲い、港湾施設を艦砲射撃していた軽巡洋艦・エムデンなどのドイツ艦艇を警戒していたイギリスからの要請で南アフリカのケープタウンからシンガポールまで航行する商船を護衛する任務でインド洋を往復しました。大正11(1922)年に海軍大学校教官から軍令部第2課長に赴任すると前年にワシントン海軍軍縮条約が締結されており、88艦隊計画を推進していた加藤友三郎海軍大臣が条約の履行に舵を反転させ、伏見宮軍令部総長や加藤寛治連合艦隊司令長官を中心とする艦隊派と厳しく対立していたのです。ただし、艦隊派の背後には88艦隊計画による莫大な収益を期待していた造船業界の後押しがあったのは間違いありません。この事態に砲術士官として艦隊派に加わっていた高橋大佐は海軍省が予算執行の一環として艦艇の建造まで管轄下に置いていることを問題視して、海軍省を事務業務だけに縮小させるべく活動を開始したのです。ところが大正15(1926)年に連合艦隊参謀長に着任すると加藤司令長官の狂気とも言うべき無謀で強引な訓練を推進することになり、昭和2(1927)年8月24日には夜間演習中の多重衝突事故・美保関事件が発生すると旗艦・長門を大混乱している現場海域から退避させようとする大失態を演じました。この事故は軽巡洋艦・神通の艦長・水城圭次大佐を軍法会議に掛け、自決に追い込んだことで責任を回避し、翌年には初めて航空母艦を組み込んだ第1艦隊司令官に就任しました。そんな軍歴を重ねていた昭和6(1931)年に満州事変が勃発すると陸軍省を差し置いて参謀本部が直接介入して事態を指図することになり、これを海軍も踏襲・模倣する形で軍令部優位の体制が実現しましたが、それが戦時下では海軍省が軍令部の御用機関と化して政治的統制機能を喪失させる結果を招いたのです。その一方で連合艦隊司令長官だった昭和11(1936)年には対米戦争を回避するため呉鎮守府司令長官の藤田大将と共に軍事参議官に退くことで同期でも68位卒業で昇任が1年遅れていた米内大将を海軍大臣に引き出しましたが、昭和14(1939年)には予備役に編入されて第2次世界大戦は白金の洋館で傍観していただけでした。
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  1. 2020/06/15(月) 13:37:19|
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