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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月19日・韓国の旧・馬山市が制定した「対馬島の日」

明日6月19日は2005年に馬山市(現在は昌原市)が「対馬と言う島が韓国固有の領土であることを内外に周知する」目的で制定した条例に基づく「対馬島の日」であり、現在も昌原市が継承しています。
馬山市は鎮海湾でも最も奥にあった港湾都市に過ぎず対馬の領有を主張する地理的・歴史的な必然性は全くないのですが、倭寇に苦しめられていた李王朝が応永26(1419)年に対馬を李従茂将軍(この場合は提督)に攻撃させた時の軍港だったため、それが自分たちの手柄のように思い込んでいるのかも知れません(韓国人には毎度のことです)。
実際の対馬は有史以来、日本の固有領土であり、島民は日本語を話し、生活習慣も日本式なので距離が近いと言うだけで領有権を主張される根拠は全くありません。その距離も対馬の紹介記事では「釜山から対馬は博多からの半分」とされていても外来の厳原港は南島東岸にあるので実際は壱岐島からと大差ありません(対馬は南北82キロある)。
それだけでなく文永11(1274)年と弘安4(1281)年の元寇で高麗王朝=韓国は水軍の主力として対馬に侵攻し、沿岸部の村々を襲撃して老人から幼児までを手当たり次第に殺害し、女性を船に乗せて散々に強姦した上で海に投げ込んで殺害したと記録されています。さらに元寇の後には侵攻に対する報復と積極的防御として対馬の漁民が武装して朝鮮半島南部沿岸を襲撃するようになり、康応元(1389)年には高麗王朝の水軍が逆襲して同様の残虐行為を繰り広げ、続く李王朝も倭寇の撲滅を名目に対馬の領有を画策するようになり、前述の応永26(1419)年には兵船227隻、兵員17285人を派遣して全て日本人の殺害をするべく上陸戦を展開したのですが、内陸に入ると日本の武士団には敵わず撤退=敗走したのです。その後は対馬の領主・宗氏が朝鮮との交易を進めるため倭寇を取り締まると同時に防備を固めたため李王朝による侵攻も鎮まりましたが、そこで降って湧いたように起こったのが認知症を患っていた豊臣秀吉さんによる朝鮮出兵でした。韓国人は神功皇后による朝鮮出兵や任那の日本府の存在は認めていませんが、秀吉さんについてはいまだに深く恨んでおり、大阪や名古屋からの旅行者に「秀吉をどう思うか」と質問し、悪く言って謝罪しないと許されないようです。
そして日清戦争と日韓併合までくると日韓では史実が大きく喰い違ってしまいますが、日韓両国の敗戦後、李承晩政権は「秀吉の朝鮮出兵の際に1419年以来、李王朝の領土だった対馬を奪われた」「この時、李王朝に臣従する島民は激しく抵抗した」と言う荒唐無稽な虚偽の歴史を捏造し、「韓国の独立時に返還せよ」とアメリカに要求したのです。当然、アメリカは拒否しましたが、李承晩ラインによって竹島を奪取したことに味を締めた韓国は日本が竹島の領有を主張することに対抗して国内では対馬の領有=返還を喧伝するようになりました。この条例も島根県が2005年2月22日に「竹島の日」を制定したことに対抗して地方自治体に過ぎない馬山市が制定したものです。
当事者である対馬は観光収益確保のため韓国人の旅行客を誘致していますが、島根県の「竹島の日」に日本の国鳥である雉を大量に惨殺している国家と国民との交流を進めること自体が売国行動であると厳しく糾弾されるべきでしょう。
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  1. 2020/06/18(木) 13:24:34|
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