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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1953

座席に戻ると乗務員たちが座席をベッドに直す作業をしていて梢とドイツ人夫婦は通路で待っていた。私が歩いてくるのを見つけた梢は立ち話を止めて日本語で声をかけた。
「時間がかかったね」「うん、途中でドイツ軍の元中佐に会ってね。声をかけられたんだ」「貴方は迷彩服だもん。元軍人なら声をかけたくなるよね」日本語で会話している私たちをドイツ人夫婦は覗き見しているが表情からトイレに行くまでの警戒感が消えている。
「こちらのノイマンさんは貴方が軍人なのに頭を剃っているから日本版ネオ・ナチじゃあないかって疑ってたんだって」「英語が通じたのか」「奥さんはオランダ語が判るそうだから片言で何とかなったよ」この誤解はアメリカ軍でも受けることがあるが迷惑この上ない。ナチス・ドイツでは側面を短く刈り上げていても頭頂部は7・3分けにしていた。坊主刈りだったのは帝国陸軍だから剃髪をナチズムのシンボルにするのは止めてもらいたいものだ。
「それで貴方は坊さんだって説明したら旦那さんが『禅僧か』って訊いてきたから『うん』って曖昧に認めちゃったんだ。ゴメンナサイ」「どうせ英語が通じないから宗教談議にはならないだろう。気にするな」私の返事を聞いて梢は安堵したようにうなずいた。
「それでドイツの元中佐との話は面白かったの」「ドイツ軍は沖縄の自衛隊よりも肩身が狭い思いをしているみたいだ。東西冷戦が終わってドイツはEUの中心地になったんだから、もう国防のための軍隊はいらない。治安維持と国境警備の警察部隊を強化すれば十分だそうな」「面白い。私も話を聞いてみたいな」梢が軍事関係の知識を学習しているのは私との会話のためだと思っていたが個人的にも関心を持っているのかも知れない。
乗務員たちは作業を終えるとドイツ語(多分)で挨拶をして隣りの座席に移動していった。ヨーロッパの寝台車の2段ベッドでは緊急時に女性を先に避難させるため下にするのが一般的なようでドイツ人夫婦に倣って梢が上に寝た。
翌朝は予約順にビュッフェのアナウンスが入り、ドイツ人夫婦と一緒に呼び出された。食事の間に乗務員がベッドを座席に直すらしい。
「窓の外はアルプスになってるね」ビュッフェの席に着くと窓の外には巨大な岩山が高さを競い合うように連なっていた。9時過ぎにチューリッヒ着なのでスイスに入っていても不思議はないが、戦時には爆破して封鎖すると言う国境のトンネルの長さを実感するのを忘れていた。
「グッド・モーニング、モリヤ2佐」ウェイトレスに朝食のセットを注文して窓の外を眺めながら今日の予定を話し合っていると通路をクライスト元中佐と奥さんらしい銀髪の女性が歩いてきて声をかけた。梢もクライスト元中佐のアメリカ軍とは全く違う見解に興味を持ち、話を聞きたがっていたが、到着までの時間を考えると少し無理なようだ。
「グッド・モーニング、クライスト中佐・アンド・マダム」「イエス、グッド・モーニング・サー」私の挨拶に妻も笑顔で答えた。それにしても夫と同じ階級の私に敬称の「サー」を付けたのは退役者の現役に対する謙遜か、現在の国際刑事裁判所の検察官に向けた敬意なのかは判らない。どちらにしろ互いに席に戻ってからの説明が好意的だったのは間違いない。
「クライスト中佐ご夫妻はチューリッヒにはよく来られるのですか」ここで梢が質問した。高齢者に「初めてですか」と訊くのは「経済的な余裕がない」「学習意欲がない」「夫婦仲が良くない」などの失礼な意味になることもあるので避けたのは流石だ。
「夏にはスイスで避暑と言うのが私たちの習慣になっているんだ」「冬のスキーもね」夫妻は誇示するのではなく自然に答えた。やはりヨーロッパの軍の士官は貴族階級の騎士の末裔と位置付けられており、肩身は狭いとは言えドイツ軍でも社会的な地位は確保されているらしい。
「私たちは初めてなんです。よろしければ見どころを教えて下さいませんか」「今日は美術館、博物館、動物園、植物園巡りの予定ですが、よろしければ夕食まで案内しましょう」梢のおかげで熟練のガイドを無料で確保することができた。おまけに会話も弾みそうだ。
チューリッヒは人口約39万人でもスイス最大の都市で、国際的な金融機関が集中している。中学校の社会科の地理の試験ではスイスの首都を出題して「ジュネーブ」と答えさせる引っ掛け問題があったが、首都のベルンの人口はチューリッヒ、ジュネーブ、バーゼルに次ぐ4番目で約14万人に過ぎず、古都ではあっても文化施設はチューリッヒの方が充実している。しかし、日本でこの地名が知られたのはコール・センターの受付係(=松木里菜)の美貌が評判になった保険の「ハロー・チューリッヒ」のCMが始まってからだろう。
「そう言えばアンリ・ギザン将軍の墓所はどこにあるか知りませんか」「残念ながら知らないな。彼はフランス系だからフランス語地区にあるんじゃあないかな」1つ宛てが外れたが、私に外国軍の将軍や提督の墓所を訊かれても答えられないので、こちらの愚問だった。
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  1. 2020/06/22(月) 13:57:16|
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