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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月24日・非公認の剣の達人・仏生寺弥助が謀殺された。

幕末の血の嵐が吹き荒れていた文久3(1863)年の明日6月24日に江戸3大道場の1つ「練兵館」で最強と謳われた仏生寺弥助=本名・吉村豊次郎さんが謀殺されました。33歳でした。
弥助さんは文政13(1830)年に越中国仏生寺村(現在の氷見市)の農家、若しくは漁師の子として生まれましたが、15歳頃に同じ村出身の斎藤弥九郎さんを頼って江戸に出て現在の靖国の南西部一体に100畳敷きの道場と30畳敷きの寄宿舎を構えていた神道無念流の練兵館の風呂焚きとして雇われました。当時の江戸では現在と同じ防具を装着して竹刀での試合稽古を採用した北辰一刀流の千葉周作さんの玄武館が「技の千葉」、精神面の修養を重視した鏡新明智流の桃井新蔵さんの士学館は「位(=品格)の桃井」、そして現在なら「オール江戸剣術選手権」と言うべき他流試合の大会を主催していた斎藤さんの練兵館は「力の斎藤」として並び評されていました。
そんな練兵館で弥助さんは風呂を焚きながら熱心に道場を覗き見していたため斎藤さん以上の実力者と目されていた隠居先生こと岡田利貞さんに声をかけられ、個人的に指導を受けることになったのです。すると驚異的な上達を見せ、岡田さんの推薦で風呂焚きを止め、門下生になることができました。岡田さんは自分が発掘した天才を愛し、英才教育を施すと忽ち修得して周囲からは斎藤さんの2人の息子を凌ぐ「斎藤の閻魔鬼神」と呼ばれるようになりました。しかし、元々が無学文盲だったため練兵館では門下生に受講させていた軍学などの座学は全く話にならず平仮名でも自分の名前が書けなかったようです。
やがて通常7年以上かかる免許を2年で与えられたのですが、道場内での地位が高くなると行動にも制約を受けるようになって、そんな堅苦しい生活に嫌気が差したのか練兵館から出奔してヤクザの用心棒などで暮らすようになりましたが、手強い道場破りなどが現れると何故か姿を現して、これを完全撃破して練兵館の看板を守ったと言われています。
弥助さんの剣技は岡田さんの英才教育を受けた割に左上段からの面打ちだけでしたが、その速さは神の領域で、練兵館に道場破りに来るほどの剣客でも「面を打つ」と予告されても防ぐことができず、試合後に「剣が見えなかった」と語っていたそうです。
しかし、練兵館は桂小五郎よん(「さん」を付けるに値しない)や高杉晋作よんも入門していたように毛利藩とのつながりが強く、弥助さんもその人脈からヤクザの用心棒と同じ軽い感覚で京都の尊皇攘夷のテロリストに加わったのですが、将軍警護の目的で集められ上洛してきた壬生浪士組(=後の新撰組)の初代局長の芹沢鴨さんと親交を持つようになり、京都所司代=会津藩の直属になった壬生浪士組に乗り換えようとしたため、誰も敵う者がいない剣技を恐れた毛利藩のテロリストたちが抹殺を画策し、泥酔させた上で五条河原に連れ出して斬殺したと言われています。
惜しむらくは弥助さんは道場対抗試合や御前試合などの公式戦に出場したことがなく、道場破りも敗れた方は口をつぐみ、練兵館としても助太刀に救われたことは恥辱なので記録に残さず、神の領域の強さは伝説にしか残っていません。
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  1. 2020/06/23(火) 13:43:04|
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