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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1956

今日はいよいよアルプス観光の目玉・ツェルマット村だ。昨晩、泊まったコー村の民宿からも上高地の穂高連峰の想わせるダン・デュ・ミディの雄大で衝立のような姿が見えるのだが、海抜3257メートルでは高さも穂高連峰の3190メートルと大差はない。
「先ずは昼食ね」ローザンヌからツェルマットまでは列車で4時間弱かかる。コー村では民家の民宿だったので家族と一緒に早めの朝食をとって駅まで送ってもらって列車に乗ったが、麓のテイッシュ駅でアプト式鉄道に乗り換えてツェルマットに着いた頃には午後になっていた。
「冬物が活躍するぞ」ツェンマットは駅前でも海抜1600メートルなので夏場の日中でも気温は15度を切ることがある。それでも民宿を出る時、梢のコートは鞄の一番上に入れてきたから座席でも簡単に取り出せた。勿論、私は迷彩の作業外衣だ。
「ここだけは民宿が取れなかったんだよな」「大半の町民の仕事はホテルやレストランの従業員だから町の主要産業を阻害することはできないんだって」そんな確認をしながらホームに下りるとやはり空気は冷たい。過酷な環境なので駅全体が建物の中にあるのだが、それでも線路から冷気が吹き込んでくる。梢はコートのポケットに入れていた手袋をはめた。そんな様子を見ながら息を吐いてみたが流石に白くはならなかった。
「あれッ、オランダ語の『Welkom=ウェルカム』の隣りに『ようこそ』って書いてあるよ」多くの観光客についてホームを歩いて行くと梢が壁に書き連ねている文字に気を留めた。言われて横を向くと世界各国の歓迎の言葉が並んでいる中に平仮名で「ようこそ」と書いてある。オランダ語と並べているところが私たちのためのようで梢と笑顔を交わした。
「それにしても静かな町だな」「うん、こんなに車が走っていてもエンジン音がしないね」駅前にはマイクロバスやワゴン車が何台も駐車していて運転手が客引きをしているが、走り出してもエンジン音がしない。どうやら電気自動車らしい。
「馬車もあるさァ」唐突に梢が歓声を上げた。タクシーとは少し離れた路上に馬車が停まっている。こちらの御者(ぎょしゃ)は客引きこそしていないが、馬に近寄る観光客に愛想笑いを振り撒いているのは同じだ。それにしても御者もタクシーの運転手と同じ服装なのは不似合いではないか。やはり御者は中世風の衣装でなければ雰囲気が出ない。
「そう言えば竹富島にも観光案内の水牛の車があったよね」「ワシらは乗らなかったけどな」私たちはレンタ・サイクル専門だったので観光ツアーの水牛車には乗らなかったが、並走しながら御者の小父さんが三線を弾いて「安里屋ユンタ」の原曲を披露するのを聴いていた。
「ここではヨーデルを聞かせてくるのかな」「ヨーデルって『山の人気者』に出てくる叫び声だろう」「それを言うなら『ハイジ』でしょう」私の高校では上高地への修学旅行の前に大学時代は山岳部だった教師たちが自分の科目の授業中に山の歌を教え始め、その中に昭和8年の中野忠晴の「山の人気者」も入っていた。
「『山の人気者』ってどんな歌なの。聞いたことないよ」「本場で下手なヨーデルを唄うのは流石に恥ずかしいな。それでもご要望とあれば実施します」ここで隊歌演習の姿勢になるのは単なる個癖だ。歩道を歩いている通行人たちは物珍しそうに眺めていく。タクシーの運転手たちは腕組みをしてこちらを見ているが、アジアの軍人が始めることに注目しているだけだろう。
「山の人気者 それはミルク屋 朝から夜まで唄を振り撒く・・・娘と言う娘はユーレイティー ふらふらとユーレイティー ミルク売りを慕うユーレイティー ユーレイユーレイティー・・・」私の下手なヨーデルに梢は大喜びで拍手したが、周囲の人たちは口々に何かを言っている。しかし、地域から見てイタリア語のようで理解できなかった。
「君のヨーデルは発声法が違うよ」すると地元の人らしい高齢の男性に英語で声をかけられた。
私たちはこれから昼食に行くのだが、こうなると知的好奇心を発揮するしかない。
「ヨーデルは仮声帯を使う裏声と肺で出す胸声を織り交ぜて唄うんだ。本来は牧童が谷を挟んだ相手と意思疎通するための連絡手段だったんだよ。仮声帯を使うと羊を追って喉が潰れてしまっても高い声がでるからなんだ。君は軍人だから声量はあるようだ。発声法を覚えればすぐに上達するだろう」男性は説明しながら自分の首の喉仏の上を指で差し、仮声帯の位置を教えてくれた。確かに私の声量は自衛隊の号令調整と坊主の勤経の両方で鍛えているので発声方法を覚えれば上達しそうだが、位置だけでは声を出す方法が判らない。
「ツェルマットの人間なら誰でも唄えるはずだからガイドにでも聴かせてもらってマスターして帰ってくれ」それだけを言うと男性は梢に笑顔を向けて立ち去った。私がヨーデルをマスターしても使う機会は「山の人気者」とハイジの主題歌2曲を唄う時くらいだが、淳之介とあかりにマスターさせれば波止場と船で対話できるかも知れない。これもスイス土産にしよう。
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  1. 2020/06/25(木) 13:17:05|
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