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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月29日・やや過剰評価ではないか?滝廉太郎の命日

明治36(1903)年の明日6月29日は小学校の音楽の教科書に「日本を代表する作曲家」として紹介され、「花」「荒城の月」「箱根八里」の作品3曲を習った滝廉太郎さんの命日です。23歳でした(軍隊少年だった野僧は軍歌調の「箱根八里」が大好きで、通学しながら熱唱し、家や教室でも笛やオルガン、ピアノで演奏していました)。
滝さんは明治12(1879)年に廃藩置県後に内務官僚になっていた大分県の別府湾沿いの日出藩の家老職にあった上級武士の男8人兄弟の長男として東京で生まれました。日出藩の藩主・木下氏は木下藤吉郎の賢妻・於禰の長兄の家系で関ヶ原での武功によって3万石の所領を与えられ、2代藩主が弟に5000石を分け与えたため2万5千石になったものの幕末まで加増も減俸も移封もされずに存続した藩でした。
父は、さらに滝さんが就学年齢に達した頃に内務官僚から地方官になって関東以西の各地に家族帯同で赴任したため、滝さんは神奈川県の師範学校付属小学校に入学し、富山県の師範学校付属小学校に転校し、東京の尋常小学校を卒業すると今度は大分県の師範学校付属小学校高等科に入学したものの父の県内移動で竹田市の高等小学校に転校・卒業することになりました(彫刻家の朝倉文夫さんの先輩に当たる)。義務教育終了後は東京の尋常小学校時代から始めていたピアノ=音楽家の道を歩み始め、明治27(1894)年に東京音楽学校に入学し、研究科に進んだ頃からは作曲にも励むようになりました。
当時の音楽教育では洋式の5線譜による楽曲がなかったため子供たちに讃美歌や海外の民謡を日本語の歌詞で唄わせていて、その替え歌のような教材を問題視した現場から日本の歌詞から作曲した純正の楽曲を求める声が上がっていたのです。滝さんはその声に応え中学校の唱歌として前述の「荒城の月」と「箱根八里」など、幼稚園の唱歌=童謡として「桃太郎(桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけたキビ団子、1つ私に下さいな)」「雪やこんこん(雪やこんこん 霰やこんこん 降って降ってはずんずん積もる)」「お正月(もういくつ寝ると お正月)」「鳩ぽっぽ(ぽっぽっぽ鳩ぽっぽ 豆が欲しいかそらやるぞ)」などを作曲し、また組歌「四季」の中の1曲として前述の「花」を発表しました。なお、「桃太郎」は作詞も滝さんです。一方、「荒城の月」は仙台城下の商家の出身だった土井晩翠さんが戊辰戦争で荒廃した奥羽越列藩同盟の城をイメージして作詞したにも関わらず滝さんは小学校高等科時代を過ごした大分県竹田市の明治6(1873)年の廃城令で取り壊された岡城の記憶で作曲したため悲壮感が全く足りません。それを選んだ文部官僚が薩長土肥の人間だったのでしょう。
こうして日本国内での評価が定まった明治34(1901)年から音楽家としては3人目の留学生としてドイツに渡航しましたが5カ月後に肺結核を発病して帰国することになり、大分市の父の生家で療養していましたがそこで亡くなりました。
没後、感染を恐れた周囲が楽譜などの所持品を焼却して作品の大半は失われてしまったため偉大性を強調する人たちは過大推定していますが、確認されている作曲作品は34曲に過ぎず(大半は唱歌)、「日本を代表する作曲家」と呼ぶには実績不足でしょう。
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  1. 2020/06/28(日) 12:30:03|
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