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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ1960

「モリヤさん、お久しぶり」陸上幕僚監部に転属し、以前と同じ官舎に入った佳織は夫と行っていた近所の居酒屋に顔を出してみた。するとママさんは少し困惑したような顔で出迎えた。
「旦那さんは外国に転属になったそうだけど入れ替わりに奥さんが帰ってきたのね」部外者とは言え官舎の住人を相手に水商売をしているママさんは自衛隊の人事の裏事情にも通じている。モリヤ妻は陸上自衛隊での女性の活躍を象徴する存在として将官にするべく失点のない経歴を重ねさせており、モリヤ夫の海外赴任が決まったのはA日新聞の取材で閣僚の靖国参拝を批判したことが問題視されたことだが、実際は妻に悪影響を与えないための隔離だったと聞いている。
「それにしても奥さんは随分帰ってなかったんじゃあないの。旦那さんからは2回くらい四国のお土産をもらったけど」「私は忙しくってあの人が来ても相手をしている時間がなかったのよ」佳織の口調が厳しくなり、ママさんはカウンターの奥の調理場からつけ出しの小鉢を持ってきて割り箸と一緒に前に置いた。伊丹のママさんも家庭=夫婦関係よりも仕事を優先している佳織の姿勢に批判的だったが、酒を提供する店の女主人は酔った男性の愚痴ばかりを聞くため男女同権と言う時代の流れが理解できていないのではないかと考えている。この飲み屋のママさんは家庭を守っているのかを訊けば痛烈な嫌味になるはずだ。佳織は取り敢えずビールを頼み、グラスを口にしてから悪意のある質問を投げかけた。
「ママさんは独身なの」「いいえ、家庭がありますよ。ただ子供が中学生の時に夫が亡くなったから進学費用を稼ぐためにこの店を始めたの」通常、水商売や風俗業界で働いている女性は仕事中とそれ以外の時間の自分を別人格としているので本当の私的事情を口にすることはないのだが、佳織は同性であり他に客がいないたため事実を語ったようだ。
「私には亡くなった母と親しかった伊丹のスナックのママさんがいるんだけど似たような事情だったわ。あちらは旦那さんが商売に失敗して借金を返すために店を始めたの。結局、旦那さんは借金に治療費を上乗せして病気で亡くなってしまったから大変な苦労をしたみたい」こうして別世界の女性たちの苦労を話題にしていると先ほどまで胸に抱いていた上から目線の嫌悪感が自責の念に代わってくる。特別職国家公務員・幹部自衛官である自分の職務遂行とママさんたちの商売の苦労に優劣はない。むしろ夫の職務を顧みることもなく、その赦しと支えに後押しされていたことも忘れていたことが女性として劣っているように思えてきた。
「あの人はよく来てたんですか」「旦那さんは休みの日には近所のお寺で修行してたから、法事で飲んだ帰りに寄るくらいね。頭を剃って作務衣だったから官舎のお客さんでも自衛官って思っていない人がいたわ」佳織は夫の休日の過ごし方を知らなかった。自衛官は副業が禁じられているので謝礼は受け取れない。寺にとっては無料で真面目に働く有り難い納所(雇われ坊主)だったはずだ。それにしても法事も勤めていたとなると本格的な坊主ではないか。
「それに弁護士だって判ると無料法律相談が始まっちゃって。ウチとしては助かったけど旦那さんは仕事の気分転換にならなくなって申し訳なかったわ」夫の素行を聞いて佳織は苦笑してしまった。佳織が前川原で出会った時には幹部候補生になっていたので羽目を外すのにも節度があったが、思い出話しで語る沖縄時代の行状はこれに近い。その相手は梢だった。
「あの人のボトルは・・・」「「転属する前に飲んでったから残ってないのよ。旦那さんと一緒に来てくれていた頃は灘の清酒だったけど今回は何にしますか」ママさんの確認に佳織はカウンターの正面に並んでいるボトルの銘柄を見回したが、日本酒に焼酎、国産のウィスキーなど庶民の酒ばかりで、高松での会合・宴席の帰りに企業の経営者や国の出先機関、県庁などの幹部職員に誘われて行った高級店とは格が違う。
「あの人は何をキープしてたんですか」「旦那さんは泡盛専門だったわね。インスリンを打つようになってからは最初の頃よりも飲むようになって・・・強いのよ。驚いちゃった」佳織は夫がインスリンを打つようになったことも知らなかった。夫は「糖尿病は食生活の乱れが原因」と決めつける日本の医療関係者や一般人の偏見が許せず、糖尿病と言う診断さえも拒否して食事制限と運動量で血糖値を維持していた。そんな夫が診断を受け入れてインスリンを摂取するようになった経緯も佳織は妻でありながら想像できなかった。
「それじゃあ酔うほどに飲むようになったの」「いいえ、兎に角、強いから酔った姿は見なかったわね」夫が酒豪なのは前川原の頃から知っている。同期の飲み会でも注がれた酒は全て飲み干しながら酔った様子は見せず、酔い潰れた同期を介抱する余裕があった。考えてみれば卒業祝賀会の帰路、送迎バスの中で酔いつぶれた佳織を背負って連れ帰ったのも夫だった。あの時、屋上でせがんでもらったのが初めてのキスだった。佳織の方が不倫のキスを奪ったのだ。
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  1. 2020/06/29(月) 12:52:00|
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